車いすテニスでパラリンピック計4個の金メダルを獲得した国枝慎吾さん(38=ユニクロ)が7日、現役引退会見に臨んだ。1月22日に自身のSNSで引退を表明してから16日。所属先のユニクロ本部(東京・有明)で、同社の柳井正代表取締役会長兼社長(74)とともに登壇した。何度も強調したのは、車いすテニスを“スポーツとして”見てほしいという思い。28年の現役生活は、競技の価値を高めようと格闘した日々だった。

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澄み切った表情に、国枝さんの万感がにじんだ。

「ふとした瞬間に『十分やりきったな』と口癖が出てしまうようになって」

21年東京パラリンピックの男子シングルスで2大会ぶり3度目の金メダルをつかむと、引き際を悟り始めた。思いが強まったのは、昨年7月のウィンブルドン。4大大会で取り残していたタイトルを手にし、コート上でチームスタッフと抱き合った時、最初にささやいた。

「これで引退だな」

覚悟が定まった。それは競技人生を「やりきった」からという理由だけではない。もう1つの思いがあった。

「時代は全く変わりましたよ。皆さんが車いすテニスが何かを知っている」

競技への見方に、緩やかな変化を感じ取っていた。

9歳で脊髄腫瘍を発症した。下半身まひとなり、足が動かなくなった。当時はバスケットボールを題材とした人気漫画「スラムダンク」が流行。国枝少年も憧れたが、近所で車いすバスケできるチームはなかった。そんな中、テニスが趣味の母に連れられて、11歳で車いすテニスを始めた。

パラリンピックの存在すら知らなかった少年は、04年アテネ大会に初出場。男子ダブルスでいきなり金メダルを獲得した。

ただ、新聞のスポーツ欄ではほとんど報じられなかった。

「アテネの頃はスポーツとして扱われなかった。福祉として、社会的な意義があるものとして、メディアを通して強く伝わっていた。これを変えないといけない」

アテネ大会で競技を辞めようとさえ思っていたが、自らに使命を課した。

願いは結果でつなぐしかない。08年北京パラリンピックでは金メダルをつかんでみせた。しかし、世間の関心は競技に集まらない。

「よく『車いすでテニスやって、偉いね』と言われたこともあった」

体が不自由なのに。車いすなのに。その言葉が付いて回った。

それでも歩みを止めなかった。09年には車いすのテニスプレーヤーとして、初めてプロに転向。柳井会長は当時を懐かしく回顧する。

「最初に会った時に『ああ、この人なら大丈夫』と思った」

国枝さんの熱量は、確実に伝わっていた。

ただ、16年リオデジャネイロ大会で金メダルを逃すと心が割れかけた。

「もう無理かも」「引退かな」

その言葉に夫人の愛さんは穏やかにうなずいてくれていた。

「吐き出せる場所があるというところが、きっと僕の競技の助けになった」

アスリート・フード・マイスターの民間資格を取得した妻は、心身を支えてくれた。

そうしてつかんだ21年東京パラリンピックの金メダル。「プレーに感動した」という声が続々と届いた。

「スポーツとしての手応えがものすごくあった」

これまでは3つの敵と格闘してきた。

「自分との闘い、相手との闘い、そしてスポーツとして見られたいという闘い」

肩にのしかかっていた重圧は、東京大会を境に感じなくなった。

「ようやく純粋にテニスができて、相手と向き合えるようになったのかな」

今は車いすテニスをスポーツとして認知する向きが強まった。チェアワークやショットが注目されるようにもなった。晴れやかな顔で、しみじみと言う。

「純粋なスポーツとしてのフィールド、土台ができたのかな。その環境を用意できてよかった」

これからの道については「お風呂入っているときに20分ぐらい考えてはみるんですけど、答えが出ない」と苦笑いするが、願いは変わらない。

「健常者と障がい者の垣根のないスポーツを、と今でも思う。その活動は実際にこの後も続いていくのかなと、ぼんやりと思っています」

競技を始めて28年。穏やかな国枝さんの表情が、車いすテニスへの変化を物語っていた。【藤塚大輔、奥岡幹浩】

◆国枝慎吾(くにえだ・しんご) 1984年(昭59)2月21日生まれ、千葉県柏市出身。9歳の時、脊髄腫瘍で下半身まひに。小6で車いすテニスを始め、06年に初の世界ランク1位。09年プロ転向。パラリンピックは5大会連続出場。シングルスは08年北京と12年ロンドン、21年東京で金3個で、車いす男子最多。ダブルスでは04年アテネ金、08年北京と16年リオデジャネイロで銅。現行グランドスラムはシングルス28勝、ダブルス22勝の計50勝で、車いすテニス史上最多。年間グランドスラム達成10回。世界ランキング1位のまま今年1月に引退発表。