72年ミュンヘン五輪男子バレーボールで、日本代表が金メダルを獲得した時の主将の中村祐造氏が、視床出血のため20日に大阪・堺市内の病院で亡くなっていたことが26日、分かった。68歳だった。生前の本人の意向により、通夜および葬儀はすでに執り行われた。中村氏は5月に脳内出血で倒れ、入院していた。

 中村氏は闘志むき出しのプレーや言動で、日本男子ただ1度の五輪金獲得に大きく貢献した。当時既に30歳で、レギュラーではなかった。しかし、袖をまくり上げ、大声出して、若手の森田淳悟、大古誠司らを引っ張った。同五輪準決勝対ブルガリア戦。セット0-2とされ、第3セットも0-4の大ピンチだった。そこで松平康隆監督(当時)は、ベテランの中村氏を南(故人)とともに起用。流れを変えることに成功し、大逆転で決勝進出を果たした経緯がある。

 中村氏は姫路工大付高から61年八幡製鉄(現新日鉄)に入社。練習に次ぐ練習で「練習の鬼」と言われた。69年には監督兼選手となったが、71、72年は日本リーグから実業団リーグに転落する苦渋も味わった。しかし、73年に日本リーグに復帰すると、いきなり優勝という劇的な復活劇を演じた。

 77年に現役引退し、85年に腎不全で腎臓を移植。入退院を繰り返していたが、その間も、ママさんバレー教室や講演で全国を駆けずり回るなど、現役時代と同様の馬力を見せた。97年に定年で新日鉄を退職。その後は、チームの顧問などをしていた。後輩で、元日本代表の小田勝美ブレイザーズ部長は「バレー界最大の功労者。残念です」と語った。