連載第3回は、かつて日本選手権7連覇を達成した神戸製鋼のお膝元、兵庫県神戸市。95年にはV7の2日後に阪神・淡路大震災が起き、屈強な男たちは市民と助け合いながら立ち上がった。元日本代表監督の平尾誠二さん(享年53)も愛した街が、ワールドカップ(W杯)の熱狂に包まれる。

神戸製鋼V7の当時を振り返った福本正幸チームディレクター(撮影・松本航)
神戸製鋼V7の当時を振り返った福本正幸チームディレクター(撮影・松本航)

15年3月2日、アイルランドから吉報は届いた。「W杯リミテッド」の理事会で、19年W杯日本大会の12会場が決定。「神戸に来てくれて本当に良かった…」。現在トップリーグの神戸製鋼でチームディレクターを務める福本正幸氏(50)が、ホッと息をついた。

「神戸でラグビーせな、アカンやろ! ちゃんとフォローせえ!」

神戸市御崎公園球技場(ノエビアスタジアム神戸)への招致が確実視されていても、平尾誠二さんはいつもそう言ってきた。その秋から胆管細胞がんと闘い、翌16年10月20日に53歳の若さで永眠。誰よりも神戸開催を望んだのが、港町の象徴である平尾さんだった。

95年1月、日本選手権の神戸製鋼-大東大戦で華麗なステップでパスを出す神戸製鋼SO平尾
95年1月、日本選手権の神戸製鋼-大東大戦で華麗なステップでパスを出す神戸製鋼SO平尾

95年1月17日、午前5時46分。当時27歳の福本氏は後に阪神・淡路大震災と知る衝撃で目を覚ました。「戦争か? 宇宙人が来たんか?」。腹の上に落ちた電気の傘でわれに返り、慌てて外に向かう。神戸市東灘区の10階建て社員寮は1階がつぶれ、大男たちは隙間をこじ開けながら飛び出した。

1月15日には東京・国立競技場で、日本選手権7連覇を達成。5万8000人の大歓声を受けながら、102-14で大東大を圧倒した。その2日後に味わった絶望感。「助けてくれ!」。周囲の声に導かれるように、オレンジのチームコートを着た男たちは、夢中でがれきを動かし続けた。

同区内の練習場は液状化。4月7日の再始動はソフトボール場だった。全体練習は週1回。主務だった藤崎泰士さん(57)は「ヤマハさんがゴールデンウイーク前に『困っているやろうし、うちに来ますか』と言ってくれて静岡にも行きました」と感謝を口にする。

神戸製鋼V7の当時を振り返った藤崎泰士さん(撮影・松本航)
神戸製鋼V7の当時を振り返った藤崎泰士さん(撮影・松本航)

練習場は9月に復旧。周囲にがれきが積まれ、ほこりと砂で練習以外はマスクが必須だった。福本氏は「野球でオリックスも優勝した。そこは何とか僕たちも続きたかった」。だが翌96年1月、全国社会人大会準々決勝で8連覇の夢はついえた。平尾さんは同情を嫌い、仲間に言い聞かせた。

「震災のせいにするな。負けは負け。今、それを認めないと100年たっても勝てるか」

福本氏は03年のトップリーグ移行前に神戸市役所を訪問し、今も忘れられない言葉を市職員から聞いた。

「今後も連携していきましょう。神戸製鋼は『市民球団』ですから」

地域の温かさを日々感じながら、1年後を思う。「W杯を起爆剤に、ラグビーの街として発展してきた神戸を、もっと盛り上げていきたい」。神戸に尽くし続けた平尾さんもまた、同じ願いだろう。【松本航】