いよいよ日本列島がラグビーに沸く開幕まで半年を切った。4月からは好評連載「W杯がやってくる」もグレードアップ。火曜日から土曜日の紙面で、連日掲載します。リニューアル第1弾は「記者が振り返るワールドカップ(W杯)の歴史」。歴代の担当記者が当時の日本ラグビー界の状況を背景に、日本代表の世界への挑戦をお届けします。

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1987年、第1回のW杯が行われたのは「昭和時代」だった。5月24日、日本は初戦で米国に敗れた。トライ数3は同じだが、プレースキック10本のうち8本を外して18-21。「惜しかった」と当時の紙面にはあるが、世界との差を思い知らされた試合だった。

1987年5月25日付東京本紙
1987年5月25日付東京本紙

無理もなかった。できたばかりのW杯は、選手にとってもラグビー界にとっても未知のもの。ロックの林氏は「誰も知らない。見たことない。そういうのができたんや~、と思っただけ」と振り返る。伝えるメディアも同じ。我々もW杯を、世界を、知らなすぎた。

当時、ラグビーは大ブームだった。早明戦や日本選手権などは国立競技場が超満員。Jリーグ発足前のサッカーなど相手にならなかった。もっとも、注目されるのは早大、明大、慶大など伝統校。社会人は仕事優先で練習もできず、この年の日本選手権も東芝府中が早大に敗れた。大学こそが頂点で、日本代表が注目されることも少なかった。

W杯そのものに、反対する声もあった。相手を認めた上で対戦するのがラグビー。予選のない第1回大会は招待だったが、日本協会の中には「不特定の相手と対戦するのはラグビーではない。辞退すべき」という意見もあった。かたくなに守るアマチュアリズムが崩壊するのを恐れる声もあった。

それでも日本は参加し、惨敗した。イングランドに7-60で大敗した後、宮地克実監督は「こてんぱんにやられた…」、金野滋団長も「日本に世界のトップを相手にする力はない」と現実の前に放心状態だった。無理もない。当時あったのはテストマッチという「親善試合」。来日する伝統国は若手主体か観光気分。初の真剣勝負で知ったのは、伝統国の「本気」だった。

それでも、ラグビー界全体としては危機感がなかった。「世界に負けても日本には早明戦があるからいいじゃないか」と皮肉まじりで原稿を書くと「よく書いてくれた」と協会幹部から言われた。惨敗しても、日本のラグビー界に本気で世界と戦う意識はなかった。

4年後、宿沢広朗監督と平尾誠二主将のチームは2度目のW杯に臨んだ。今度はアジア予選を勝ち抜いて出場し、相手の分析など周到な準備もした。スコットランド、アイルランドに敗れたが、最終戦でジンバブエに52-8とW杯初白星。宿沢監督は「まだ課題だらけ」と話したが「歴史的な1勝」と喜ぶ関係者も少なくなかった。わずか2回の「世界体験」だけで、日本のラグビー界が変わることはなかった。【荻島弘一】

1991年9月16日付東京本紙
1991年9月16日付東京本紙

<過去のW杯>

◆第1回(87年、ニュージーランド・オーストラリア)予選なしで16カ国が参加。日本は初戦で米国に敗れ、イングランド、オーストラリアと3連敗した。大会直前に宮地克実監督が就任。ロック林敏之主将、SO平尾誠二ら。ニュージーランドが初代王者に。

◆第2回(91年・イングランド他)当時の5カ国対抗参加国で共催。日本はスコットランド、アイルランドに連敗し1次リーグ敗退決定後、ジンバブエに勝利。宿沢広朗監督、CTB平尾誠二主将、SH堀越正巳、WTB吉田義人ら。優勝はオーストラリア。