ワールドカップ(W杯)経験者が語るシリーズ「俺のW杯」の第3回は、明大時代の91年大会から4大会連続でメンバー入りした元日本代表CTBの元木由記雄(47=現京産大ヘッドコーチ)です。幾度となく、強豪国と接戦を演じながらも「残り20分の壁」に阻まれてきました。届きそうで、届かなかった1勝-。その歴史を、振り返ります。

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その時ふと夢を見た。ただ夢は夢であり、それから約25分後に会場に響くノーサイドの笛で目覚めると、現実はやはり残酷だった。

03年10月12日、W杯オーストラリア大会。日本の初戦はスコットランドだった。フランカー箕内主将、NO8伊藤らが体を張り、タックル成功率は相手を上回る82%。失点を最小限に止めた前半は6-15で折り返した。9点差を追う後半14分、SOミラーとCTB元木のループで相手防御を崩すと、最後はWTB小野沢が飛び込んでついに4点差。大波乱の予感を察した観衆はざわめき始めていた。

日本の負の歴史が変わるかもしれない-。そんな考えが元木の脳裏をかすめた。しかし、後半30分すぎに3連続トライを浴びる。結果は11-32の完敗だった。

「(小野沢の)トライの瞬間は『行ける』という思いと同時に、体がキツくなり始めていたんです。相手との力の差はあっても、ラスト20分までは(強豪と)戦えた。でも残り20分で相手を上回り、突き放す方法が確立されていなかった」

続く2戦目のフランスにも、後半途中まで19-20と粘りながら最終スコアは19-51。振り返れば95年南ア大会のアイルランド戦も後半20分まで21-26と接戦を演じながら、終盤に力尽きて28-50で敗れた。「残り20分」が大きな壁だった。

明大時代の91年に初めてW杯メンバー入りしてから、4大会連続で出場。世界の壁を破れぬまま、その03年が最後のW杯になった。

「どうやったら世界のトップ10の国に勝てるのか。ジャパンの時はずっと悩んでいました。考えても、考えても答えは出なかった。僕らの時代は(体力差で劣る)フィジカルを避けて、小手先で勝負をした。でも、小手先で勝てるほど世界は甘くない。(15年大会で)南アに勝ったエディー(ジョーンズ)がすごいのは、弱みを強みに変えたこと。勤勉な日本人にフィジカルやセットプレーで勝つことを求めて結果を出した」

日本代表キャップ数は79。長い現役生活で1つだけ、忘れたい試合がある。95年大会、17-145でニュージーランドに大敗した試合に、元木は出ていた。

「代表に誇りを持っていましたから。出ている選手には、責任の重さがあるんです。『はよ、終わってくれ』。ラグビーをしていて、そう思ったのは、あの試合だけ。全てが通用しない。辛い試合やった」

届きそうで、決して届くことのなかった世界との差。もがき、苦しみ、悩んだ時間があったからこそ現代表へ伝えたいことがある。

「サッカーは02年日韓大会で結果を残して、文化が根付いた。ラグビーも自国開催で結果を残すことができれば、新たなスタートを切ることができる。日本が成長していることを、世界に示してもらいたい」

心からそう願っている。(敬称略)【益子浩一】

◆元木由記雄(もとき・ゆきお)1971年(昭46)8月27日、東大阪市生まれ。大阪工大高(現常翔学園)で全国制覇。明大で3度の大学選手権優勝。94年に神戸製鋼入りし7連覇を達成。日本代表79キャップ。10年に引退。現在は京産大のヘッドコーチ。

元木由記雄氏(18年11月撮影)
元木由記雄氏(18年11月撮影)