日本のラグビー界は、長く大学が中心だった。早明戦、早慶戦など伝統校同士の対抗戦では、学生やOB、ファンがスタンドを埋めた。70年代から90年代にかけての爆発的なブームは落ち着いたが、今でも日本代表の8割以上は大卒選手が占める。大学と日本ラグビー界、日本代表、そしてワールドカップ(W杯)。過去と現在に迫る。第1回は「ルーツ校」慶大。120年の伝統をベースに世界を目指して変わる。

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1899年。慶大の選手たちは、無意識のままに覚える。この年、英国人教員のクラークが学生たちに指導して日本初のラグビーチームが誕生。以来、慶大は他の大学からも畏敬の念を込めて「ルーツ校」と呼ばれる。欧米から伝来したスポーツは数多いが、これほど「ルーツ校」が定着している例はない。それほど、慶大の存在は大きい。

第1回W杯を翌年に控えた86年1月15日、大学選手権優勝の慶大は日本選手権で社会人大会優勝のトヨタ自動車を破った。「ルーツ校」の快挙にファンは沸いたが、その盛り上がりがW杯につながることはなかった。日本代表よりも大学の方が上だった。FBとして日本一に貢献した渡瀬裕司氏は「W杯代表の(SH)生田は『日本代表より慶大のジャージーの方が重い』と言っていた。そんな時代でしたね」と、話した。

慶大は常に伝統を背負ってきた。チーム同士が対戦を決める「対抗戦」方式を守り「アマチュア」であり続けた。日本一メンバーも15人中13人が慶応高出身。花園組がそろう他大学に、常軌を逸した猛練習で対抗した。「地獄の山中湖」で磨く「魂のタックル」。鬼気迫るのは「ルーツ校」の歴史があったからだ。

もっとも、慶大を日本一に導いた上田昭夫監督(故人)はしたたかだった。精神面を表に出しながら、徹底して相手を分析。緻密な戦略で勝利した。「魂だけで勝てるなら、監督はいらない」という言葉を思い出す。渡瀬氏も「真っ先に対戦校の分析を始めたのは慶応。フィットネス専任コーチも早かった」と話した。

W杯代表選手は計6人と決して多くない。対抗戦や大学選手権の優勝回数は早明どころか新興校にも劣る。それでも「常に新しいものを取り入れ、改革しようという意識はあった」と渡瀬氏。代表スタッフなどに人材を送り、側面からサポートをする。根底に「ルーツ」の自負がある。伝統があるからこそ、常に1歩先んじることを目指した。

昨年3月、慶大はOBが中心になって「慶応ラグビー倶楽部」という法人を立ち上げた。ラグビー界では初の試み。「慶応ラグビーの強化」「社会貢献」とともに「日本ラグビー界発展への寄与」をうたう。理事でもある渡瀬氏は「世界も日本も変わっている。日本ラグビーをリスペクトし、慶応も変わっていこうということ」と説明した。

前回のW杯の後、早慶戦の前の決起集会をOBの日本代表WTB山田章仁が訪れた。大学から高校、小学生まで集まった会で、山田は大人気。「自分たちの先輩が活躍した。小学生にとってはヒーローですよ。頂点は日本代表。そこに選手を送れるようにいたい」。サンウルブズCEOとして代表強化の一端を担う渡瀬氏は言った。【荻島弘一】

◆W杯の日本代表に選出された慶大出身選手 生田久貴、村井大次郎、猪口拓、栗原徹、広瀬俊朗、山田章仁

◆慶大蹴球部 1899年(明32)、日本初のラグビーチームとして創部。横浜・日吉のグラウンドにはラグビー発祥の記念碑が立つ。チームカラーは黄色と黒で「タイガー軍団」とも呼ばれる。大学選手権は前身である東西対抗と合わせて5回優勝しているが、上田昭夫監督が率いた創部100周年の99年以来優勝はない。日本選手権優勝1回。今季から元日本代表の栗原徹ヘッドコーチ。

86年1月、日本選手権でトヨタを下し、スタンドで喜ぶ慶大・上田監督(中央)
86年1月、日本選手権でトヨタを下し、スタンドで喜ぶ慶大・上田監督(中央)