ラグビー・ワールドカップ(W杯)日本大会の開催が決まったのは、約10年前。ラグビーW杯組織委員会の事務総長特別補佐の徳増浩司氏(67)に、09年の招致成功の舞台裏を聞いた。W杯の成功とレガシー(遺産)をどのように残すのか、今も日々奮闘している。

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09年7月28日。ダブリン(アイルランド)の深夜のバーで土壇場まで続いたロビー活動が奏功し、日本が19年W杯招致に成功した。国際ラグビーボード(現在のワールドラグビー)理事会の採決は賛成16票、反対10票。当時、日本ラグビー協会の招致事務局長だった徳増氏は「3票が逆に流れていれば同数だった。我々の仕事の最後のパズルの完成は、投票前夜のホテルのバーが舞台になる」と、ロビー活動の重要性を指摘した。

19年W杯開催地に立候補していたのはイングランド、南アフリカとイタリア。南アはニュージーランド、オーストラリアと“南半球同盟”を結んでいるため、本来ならニュージーランドとオセアニアの3票は南アに流れていたはずだった。その3票が最後の交渉で日本に入り、アジア初のW杯開催が決定した。理事会後、ニュージーランドの理事が「世界のラグビー発展を考えて、私たちはあえて日本に投票した」と教えてくれた。

あれから10年。「あの時は招致に成功した喜びが大きかったが、その後はレガシー(遺産)をどのように残したらいいかと考えるようになった」と言う。5年日記を愛用しており、W杯開幕日の「9月20日」は、特に意識して書き込んできた。レガシーの1つになればと開幕戦の2年前にあたる17年9月20日に、子どもたちの国際交流をめざす「渋谷インターナショナルラグビークラブ」を設立。アジアラグビー会長在任中には「アジア・ワンミリオン・プロジェクト」を立ち上げ、20年までにアジアの競技人口を100万人に増やす取り組みも始めた。

「W杯がきっかけになって日本中で子供たちがラグビーをしてほしい。そして、W杯の観戦や、ボランティア活動に関わった人たちが、世界中から訪れる人たちとすごす共通体験が人生の宝物になる。それはW杯が終わった後にも続く」と熱い思いを口にした。ラグビー熱を一過性で終わらせないために、そして20年東京五輪へいいパスを出すためにも、今大会が大きな意味を持つと捉えている。

日本代表の前ヘッドコーチ、エディー・ジョーンズ氏(59)とは互いの自宅を行き来する間柄で、日本ラグビー界の発展について語り合ってきた。95年からW杯をすべて観戦しており、エディー時代の15年W杯南アフリカ戦は忘れられないという。「グラウンドが異様な雰囲気に包まれていた。何より選手全員が、日本が勝つと信じていた」と振り返る。今大会でも「まずは全員が勝利を信じることが大切」と話した。

人生訓は「エンジョイ・エブリミニッツ・オブ・ユア・ゲーム(一瞬一瞬に力を出し切れ)」。ウェールズのカーディフ教育大留学中に学んだ言葉で、茗渓学園ラグビー部の指導でも掲げていた。そして今、自身に問い続けている。W杯までの日々をどう「エンジョイ」していくか-。【鳥谷越直子】

◆徳増浩司(とくます・こうじ)1952年(昭27)2月4日、和歌山県生まれ。国際基督教大卒。新聞記者を経て80年に茨城・茗溪学園で英語教師となる。同年からラグビー部の指導にあたり、89年に全国高校ラグビーで全国優勝へと導いた。95年から日本ラグビー協会勤務。17年にアジアラグビー会長を退任し、17年に渋谷インターナショナルラグビーを設立。