早大、明大、慶大、同志社大-。80年代から90年代にかけて伝統の4大学がラグビー界を席巻する中、大東大が割って入った。トンガから留学してきた大型FWと高速WTBを擁して大学選手権を制し「トンガ旋風」と呼ばれた。鏡保幸監督の賭けが生み出した躍進は、社会的話題も呼んだ。

大東大で「トンガ旋風」を巻き起こしたラトゥウィリアム志南利
大東大で「トンガ旋風」を巻き起こしたラトゥウィリアム志南利

86年度の大学選手権準決勝。大東大は明大との一戦に臨んだ。明大自慢のFWが襲いかかってくる中、NO8シナリ・ラトゥ(現在の名前はラトゥウィリアム志南利)はことごとくあおむけに倒し続けた。攻めてはWTBワテソニ・ナモアが、自慢のステップとスピードでゲインラインを切り裂いた。決勝は早大を破り、初の大学選手権優勝。2人を軸に、大学の頂点へ駆け上がった。

87年1月11日付 日刊スポーツ1面
87年1月11日付 日刊スポーツ1面

88年度も2人を中心に2度目の大学選手権優勝。次々と伝統校を破る大東大は、ジャージーの色や中心選手になぞらえて「モスグリーン旋風」「トンガ旋風」と呼ばれた。ラトゥらの2学年下で早大出身の今泉清氏は「2人は脅威だった。早大で行っていたのはいかに低くタックルするか。走りだす前にいかに止めるかだった」と振り返る。ダブルタックルも取り入れるなど、黄金期を迎えていた早大でさえ手を焼いた。

社会的話題も呼んだ。一部オールドファンから嫌われ、2人を批判する手紙が大学に届いた。当時、大東大監督だった鏡氏は「赤い文字で書かれたものもあった。でもこっちも必死。いちいち気にしなかった」と振り返る。タトゥーが体に入ったラトゥの写真が週刊誌に掲載されたこともある。「やばいって思った。でもあれは文化。宗教的な心の問題」。2人の活躍の裏には、異国の文化を理解して受け入れた鏡氏の存在があった。

大東大が大学選手権初優勝する前年度には、大東大一高が高校王者となった。のちに日本代表に選ばれるSO青木忍は、1年からレギュラーとなった。ラトゥらに日本人選手がかみ合って、旋風を巻き起こした。

ノフォムリらに続いて、そろばん留学2期生として85年に来日したラトゥとナモアだが、鏡氏にとっては「賭け」だった。トンガでそろばんの先生になる約束だった1期生のノフォムリとホポイは、そろばん協会が滞在費や留学費用を全額負担。その2人が日本に残ったことにより、2期生からは、そろばん協会からの支援がなくなった。

「最初は『トンガってどこ? 何?』って思った。でも彼らのおかげでチームがどんどんよくなるのが目に見えた」という鏡氏は、ラトゥらの留学費用を「1年でダメならやめる」と部費から捻出することを決意した。この判断は正解だった。

ラトゥは在学中に日本代表に選ばれ、第1回大会から3大会連続でワールドカップ(W杯)に出場。鏡氏の賭けは、大学ラグビー界だけではなく、日本ラグビー界全体にも大きな影響を与えた。以降、トンガからの留学生は毎年のように日本へやってくる流れができた。【佐々木隆史】