ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会開幕まで、20日で1カ月となった。大躍進を遂げた4年前に続き、日本代表主将を務めるのがフランカーのリーチ・マイケル(30=東芝)だ。「日本人より日本人らしい」と評される男は、どのような歩みで桜のジャージーを着ることになったのか。今日から3日間、証言を基に足取りをたどる。

ファンとハイタッチしながら引き上げるフランカーのリーチ(左)とSO田村(左から2人目)(撮影・大野祥一)
ファンとハイタッチしながら引き上げるフランカーのリーチ(左)とSO田村(左から2人目)(撮影・大野祥一)

5年ぶりのパシフィック・ネーションズ杯優勝から一夜明けた11日、リーチはフィジーの小さな集落に足を踏み入れた。同国ビチレブ島北部にあるタブアから車で約20分。電気、水道が引かれていない地をニワトリが歩き、子どもたちの笑い声、陽気な歌が聞こえてきた。母イバさん(59)が育った自然を感じ、木陰にゆっくりと腰を下ろした。

リーチ 僕の人生は不思議。いろいろと不思議な出会いが多いんです。

フィジーから南太平洋を北に進んだキリバス・タラワ。太平洋戦争中、日米の激戦地として知られる島に、リーチの祖父エモシさんはいた。武器を持ち、戦場にかり出されていた祖父の敵は日本だった。ある日突然、森の中で日本兵と鉢合わせになった。死が頭をよぎる局面で互いに逆の方を指さすと、その場を去った。10年ほど前に亡くなったエモシさんから聞いた話を、孫が忘れることはない。

リーチ 「お前は向こうへ行け、俺はあっちへ行く」となり、お互い殺さなかったらしい。戦争に行きたくなかったんだろう。(日本との縁は)そこから始まったんじゃないですかね。

リーチ・マイケルの父コリンさん(撮影・松本航)
リーチ・マイケルの父コリンさん(撮影・松本航)

ニュージーランド(NZ)生まれの父コリンさん(62)は1980年、サモアにいた両親を訪ねる道中でフィジーに降り立った。町で偶然出会ったのが、フィジー人のイバさん。半年後に結婚し、NZ・クライストチャーチでの生活が始まった。8年後の88年10月7日にリーチが誕生。異国の地で頼もしく生きる母からは厳しく育てられ、いつも「自分を信じなさい」と諭された。

リーチがラグビーを始めたのは5歳の時だった。母から「やってみない?」と勧められ、うなずいた。

イバさん NZでは子どもがみんなラグビーをやっている。細くて、小さかったけれど「やってほしい」と言って始めさせたのよ。

リーチ・マイケルの母イバさん(撮影・松本航)
リーチ・マイケルの母イバさん(撮影・松本航)

幼少時から一生懸命走り、他人が嫌がる局面で体を張った。友人関係は狭く深いタイプだったが、仲間のことを常に考えていた。自宅に戻れば、父の背中を見た。コリンさんは独学で建築の技術を身につけ、生活に必要なものは自らの手で作った。2年前からはイバさんの故郷に移り住み、現地の人々に技術を落とし込みながら、家を建てている。肝臓の一部と腎臓は、孫と見知らぬ人に提供したという。

コリンさん 今まで助ける仕事をしてきたので、その延長線上に今がある。知識をフィジーの人に与える人生も永遠には続かない。次の世代につなげていくことが必要だから、今、ここ(フィジー)にいる。

リーチのプレースタイルは、自然と父の姿に重なる。息子は照れることなく、親の偉大さをかみしめた。

リーチ お父さんは「人を助けたい」というのが強い。だからNZから出て、フィジーで暮らしている。似ているところはたくさんある。どこでも生きていけるところ。物を大切にすること。お父さんの工場(作業場)はごみばっかりだけれど、あれが壊れた人の物を直すんです。

そんな家族の意見が割れたのは04年。当時15歳のリーチは意を決して「日本に行きたい」と伝えた。かつて父の命を脅かした「日本」という国名を聞いたイバさんは、首を横に振った。

イバさん まだ若すぎるから、違うところに行ってほしくなかった。日本の人がみんな悪い人に見えた。戦争の映画を見過ぎて、そのイメージがあったのよ。

だが、リーチの決意は固かった。(つづく)【松本航】

◆リーチ・マイケル 1988年10月7日、ニュージーランド・クライストチャーチ生まれ。札幌山の手高への留学で来日し、東海大を経て東芝。08年11月米国戦で日本代表デビューし、W杯は11年から2大会連続出場。13年に日本国籍を取得し、15年W杯は主将を務めた。代表62キャップ。家族は知美夫人(31)と長女アミリア真依ちゃん(5)。190センチ、110キロ。