新時代の幕開けを迎えました。振り返れば、30年前の89年1月7日に昭和天皇が崩御。時代は平成へと進みます。あの昭和最後の日、全国高校ラグビーの決勝が、東大阪市の花園ラグビー場で行われるはずでした。日刊スポーツでは19年元日に、WEB限定で“幻の決勝戦”として語り継がれる大阪工大高(現常翔学園)-茗渓学園(茨城)の舞台裏を、両校の視点から描きました。令和最初の日に、再掲載します。

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大阪の難波からほど近い日本橋に、大阪工大高が定宿にするホテルくら本はある。花園に出場すれば、そこで年を越すのが恒例だった。89年1月7日。その日は、華麗なランニングラグビーで快進撃を続ける茨城県代表の茗渓学園との決勝戦が行われるはずだった。

ちょうど、出発の支度をしていた時だった。主将でFBの伊藤紀晶は、選手全員が食堂に呼ばれたのを覚えている。既に朝食はとった。決勝に向けたミーティングだろうか。それとも、誰かが何かをやらかして、叱られるのだろうか。そんなことを考えていた。

食堂は静かだった。当時ヘッドコーチとして現場を取り仕切っていた野上友一(現監督)は、腕組みをしたまま黙っていた。

静寂を破るように声が響く。

「全員、そろったか」

「はい。全員います」

伊藤紀がそう答えると、野上は、絞り出すように言葉をつないだ。

「今日の決勝戦はなくなった。試合はない、ということや。今から花園に行って、表彰式だけをやることになった」

その日の朝に昭和天皇が崩御。日程面でも順延は難しいとの判断で、中止の連絡が入ったのは、まさに宿舎を出発する直前だった。

伊藤紀は天井を見上げた。とめどなく、涙があふれ出す。初めて決勝に進んだ茗渓学園に対し、大阪工大高はそれまでに2度の全国制覇を誇る花園常連校。後に神戸製鋼に進むフッカーの藤高之、日本代表の中心選手になるCTB元木由記雄らを擁していた。

勝つ自信はあった。だからこそ、もし許されるのであれば、決勝を戦いたかった-。そんな無念の涙だった。

大阪工大高ラグビー部の礎を築き、01年に他界した荒川博司(享年62)は、いつまでも泣く部員を叱った。

「おい、お前ら泣くな! 何で泣いているんや! お前らは、日本一になったんやないか!」

そう声を張り上げながらも、誰よりも単独優勝にこだわっていたのは長年、厳しい指導でチームをここまで育ててきた荒川だった。その場にいる全員が、それを分かっていたからこそ、涙が止まらなかった。

その数日前の夜、伊藤紀は野上の部屋に呼ばれていた。WTBに誰を起用するか。最終的な決断をする前に、主将の意見を聞くためだった。伊藤紀は、こう答えた。

「僕は、陽太郎を使って欲しいと思っています。あいつは誰よりも、むちゃくちゃ走りますし、どんな時でも声を出し続けてくれる。あれほどのムードメーカーはいません。もし劣勢になった時、あいつの力が必要になると思います」

3年の山本陽太郎は、それまでの公式戦の出場がわずか3試合。CTBに2年生でレギュラーをつかんだ元木由記雄、伊藤康裕の2人が入ってきたことで定位置をつかめず、フランカーやWTBを転々としていた。

ただ、誰よりも走った。毎日の厳しい練習後に課された長距離走は、必ず先頭で帰ってくる。それは、チーム内でも有名で、1学年下の伊藤康は「すごかったです。過呼吸になるんちゃうか? そう思うくらい走っていました」と振り返る。自ら「俺はラグビーは下手くそや」と言う山本は、強豪の大阪工大高で試合に出るには、走りで目立つしかない。そう考えていた。

決勝の前夜、全員の前で先発メンバーが読み上げられ1人、1人、ジャージーを渡された。その中に、山本の名前もあった。3年間、ひたむきに追い続けてきた濃紺と赤のジャージーを手にすると、手が震えた。緊張なのか、興奮なのか、分からない。ただ、胸に熱いものが走るのを感じた。

だが翌日、山本は4試合目の公式戦になるはずだった決勝戦の開始の笛を聞くことはなかった。

決勝が中止になったあの日、花園ラグビー場へと向かう近鉄電車の中で、大阪工大高のメンバーは誰も口を開こうとはしなかった。会場に着くと、ただロッカー室で表彰式が行われるのを待った。寒く、静かな空間で、山本はこんなことを考えていた。

「3年間は、これで終わるんやろうか。俺は明日から、何をしたらいいんやろう」

ただ、がむしゃらに走り続けてきた。吐く息が荒くなり、苦しくなっても、手を抜くことはしなかった。それは、仲間とともに全国制覇という夢を追い続けてきたから。日本一にはなった。ただ、満足感や充実感は、そこにはなかった。

しばらくすると、どこからともなく楽しそうな声が響いてきた。誰ともなくグラウンドをのぞくと、茗渓学園の選手がスパイクの袋をボール代わりにして、タッチフットをしていた。観客はほとんどいない。「エンジョイ・ラグビー」と呼ばれ、快進撃を続けてきた選手たちは、永遠に開始の笛が鳴ることのない会場で、彼らだけの“決勝戦”をしていたのだった。

表彰式が終わり、記念撮影をする際も、大阪工大高の選手に笑顔はなかった。それは、あまりにも対照的な光景だった。

その1年後、再び日本一を目指した大阪工大高は、まさか、大阪府予選で姿を消した。元木らを擁し、優勝候補に挙げられながら、当時は大阪城の敷地内にあったグラウンドで、啓光学園(現常翔啓光)に敗れた。2年時に“幻の決勝戦”を経験し、3年時には花園の地を踏むことすらできなかった元木の胸には、今でもしこりのように悔しさが残る。

「あの決勝戦はやりたかったですね。勝つ自信もありましたから。次の年はどこかに、簡単に花園に行けるというおごりがあったんでしょうね。謙虚ではなかった」

30年の時を経て、校名は大阪工大高から常翔学園になった。グラウンドをのぞけば、あの時と同じ濃紺と赤のジャージーを着た選手たちが、ひたむきに走る姿を見ることができる。

昭和から平成、そして令和と時代が移り変わった今でも。日本一という変わらぬ目標を追い続けている。(敬称略)【取材、構成=益子浩一】