ラグビーのW杯日本大会が、いよいよ20日に開幕する。日本代表は開幕戦(20日、味スタ)でロシアと対戦。高校ラグビーで4度の全国制覇を達成し、ドラマ「スクール☆ウォーズ」としても描かれた伏見工(現京都工学院)の山口良治総監督(76)は「奇跡を起こせ」と日本代表にエールを送った。同校からはSH田中史朗(34=キヤノン)とSO松田力也(25=パナソニック)がメンバー入り。かつてラグビー界に奇跡を起こした“泣き虫先生”が、日本代表の快進撃を期待した。
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世界を驚かせる覚悟はあるか-。76歳になった山口は、そう問いかける。日本代表として初めて桜のジャージーに袖を通してから、半世紀もの月日が流れた。どれほど時代は移り変わっても、抱く矜持(きょうじ)は変わらない。自国開催のW杯に向かう後輩たちへ、伝えたいことがあった。
48年前、今と同じく季節は秋だった。
1971年9月28日。
日本代表はラグビーの母国イングランド代表を、東京・秩父宮ラグビー場に迎えた。その日の出来事は、鮮やかな記憶として残っている。当時の大西鉄之祐監督(享年79)から、塩がまかれたジャージーを受け取る際に、こう告げられた。
「良治、タックルだぞ!」
静まり返ったロッカー室。グラウンドへ飛び出す直前に、高まる鼓動は最高潮に達した。水盃を壁にたたき付けながら、大西監督は大声を発した。選手はみな、泣いていた。
「日本ラグビーのために、貴様らの命をくれ。グラウンドで死んで来い! ここで死ぬ気のないやつは、今すぐジャージーを脱げ。お前たちの骨は、俺が拾ってやる」
無我夢中で戦った。どんなに苦しくても走り続けた。日本を背負う使命感、ただそれだけのために。
両チームともノートライの死闘は3-6。今でも語り継がれる伝説の一戦。日本が奪った3点は、山口のペナルティーゴールによるものだった。
「日本を応援してくれる人がいる。桜のジャージーを着て戦うということは、その期待に応える責任がある。大西監督はね、足の速い坂田ら、ウイングの選手にこう言うわけです。タッチライン際を走って、ラインを出そうになったら『ボーンと球を放れ』とね。『そこに良治が走ってくる』とね。僕はフランカーやったから、そう言われたら死に物狂いでフォローに走らないといけない。日本のためやからね。それが責任なんです」
初めて日本で開催されるW杯。開幕ロシア戦には、孫のようにかわいがってきたSH田中と、SO松田の2人の教え子がメンバー入りした。松田の父大輔さんは、伏見工のライバル花園高からユニチカに進んだラガーマンで、05年にくも膜下出血のため39歳の若さで他界した。山口は、まだ小学生だった松田を、毎年のように菅平の夏合宿に連れて行った。
「力也は、僕の膝に座っているような幼い頃から知っている。かわいい坊やでね。あんなにゴツくなるとは思わんかった。親父さんは、フォワードのいい選手やったけど、若くして亡くなってしまったからね。合宿には、小学生4~5人呼んでボールを蹴らせていた。ご飯も高校生の部員と一緒。後片付けもさせた。チビ(田中)もそうやが、僕の自慢話はたくさん聞かせました。全日本になれよ、桜のジャージーを着て、子供たちに夢を与える選手になれよ、とね。それが現実になった。伏見工の卒業生が国を代表する選手として、W杯で戦ってくれるのは本当にうれしいことです」
ロシアとの開幕戦、アイルランドとの第2戦(28日、静岡)は会場で応援する予定だ。思えば日本がW杯初勝利を挙げた91年大会のジンバブエ戦、歴史的金星で世界を驚かせた前回大会の南アフリカ戦も現地で観戦。日本ラグビー史に刻まれる節目の試合を、目撃している。
「4年前の南アフリカ戦は、本当は平尾と見るはずやった。彼が病気をして、それがかなわなかった。平尾は日本でやるW杯を楽しみにしていたからね。開幕のロシアには勝てる。アイルランド、スコットランドに勝つのはそう簡単ではないが、確実に日本ラグビーの歴史に残る試合をして欲しい。いかに失点を20点以内に抑えられるかだと思う。全日本にはベスト8に入ってもらいたい。奇跡はそう簡単に起きるものではないが、覚悟を持って戦えば、再びその奇跡が起きることもある。子供たちに夢を与える試合を、見せて欲しい」
覚悟を持って戦え-。泣き虫先生は、世界に挑む日本代表にそう訴えかける。【取材、構成=益子浩一】