日本代表が運命の日に世界4強の扉を開く。W杯準々決勝・南アフリカ戦(20日、東京・味の素スタジアム)に向け、15日は都内で冒頭15分の筋力トレーニングを報道陣に公開。決戦の日は、16年に胆管細胞がんで亡くなった元日本代表監督、平尾誠二さん(享年53)の命日。日本ラグビーの停滞期を支え、W杯招致に尽力した天国の恩人へ、三たび歴史的勝利を届ける。

  ◇  ◇  ◇  

これも日本代表に課された使命か。史上初の準々決勝となる南アフリカ戦が行われる10月20日は偶然にも日本ラグビー界を支えた恩人の命日。この日の会見で司会を務めたのは神戸製鋼時代、平尾さんと日本選手権7連覇を達成した日本協会の藪木宏之広報部長だった。試合ではSOとCTBとしていつも隣にいた。

藪木広報部長 今の選手は「平尾さんのために」というのはないのかもしれないけれど、これも何かの導きなのでしょうね。日本の活躍はもちろん、この大会の大成功を平尾さんは待ち望んでいると思います。

何度も世界の壁にはね返されて、今がある。平尾さんは87年の第1回W杯から3大会連続で出場し1勝8敗。監督として出場した99年大会は3戦全敗。世界に勝ちたい-。その思いはだれよりも熱かった。伏見工(現京都工学院)時代の80年度に初の全国制覇を達成。当時、ハーフ団を組んだ元同校監督の高崎利明氏(57)とは、深夜まで飲み明かし、愚痴を言い合った。

高崎氏 平尾は代表で監督をしていた時に、結果を出せなかったことを悔やんでいたんです。監督を退いてからも、日本のためにできることはないかを、考えていた。今回のW杯を、見届けたかったはずです。

その思いは見えない糸でつながっている。大会が開幕した9月20日、平尾さんの愛娘が第2子を出産。孫が増えた。神戸製鋼のFB山中は11年大会前、育毛剤に禁止薬物が含まれていたとして2年の出場停止処分。救ったのは当時GMの平尾さんだった。W杯メンバー選出時、山中は「ラグビーを続けられたのは平尾さんのおかげ」と感謝。伏見工出身のSH田中、CTB松田も遺志を受け継ぐ。

スコットランドを破って初の8強進出を決めた夜。藪木広報部長は横浜のホテルに戻ると、小さな遺影を出した。ビールを2本。久しぶりに2人で祝杯を挙げたという。神戸の街並みを一望する平尾さんの墓石にはこう刻まれている。

「自由自在」

自由に楽しく魅了する。日本が世界を驚かせる戦いはまだ続く。【益子浩一】