お帰りなさい!あの日から20年…あの男が再び登場!!

小早川毅彦(元ヤクルトスワローズ) インタビュー

 1980年。法大に1つのスポーツ新聞が発足した。その名も『スポーツ法政新聞』。記念すべき第1号の1面には当時1年生だった小早川毅彦(元ヤクルト)の豪快なバッティングフォームが掲載されていた。
 1999年。スポ法20年と時を同じくして、小早川氏は引退を表明。1つの区切りをつけた氏の20年をお伺いした。

小早川氏の写真 法大へ
―そもそも当時、法大を進学先に選んだ理由は?
 高校の時から大学に行きたかったし、行くならばレベルの高い東京六大学でというのがあったんだ。その中でも高校の1つ先輩だった西田さん、木戸さんがいた法大に行きたかったね。

六大学時代
―六大学時代のことを聞かせてください。
 まさか1年から試合に出られるとは思ってもみなかったよ。当時の大学っていうのはとにかく縦社会だったからね。

―当時と今の六大学で違いはありますか?
 今でもたまに見るけど、やっぱりお客さんが減ってきてるよね。俺たちのころはまだ盛んだったし、スタンドを埋め尽くすくらいの応援の人数はいたなぁ。だからやりがいがあったし自然と力も湧いてきたよ。あと、俺たちの頃はまだ優勝回数が2番だったんだ。それをなんとかして1番にしたくて頑張ったね。

学生生活
−学生生活はどうだったんですか?
 聞かれると苦しいね(笑)。授業にはあまり出てなかったなぁ。基本的には午前中授業に出て、午後から練習というシステムだったんだけど、ほとんど朝は合宿所で午後からの練習のために力を蓄えていたよ(笑)。

−単位の方は?
 いろいろ友達に迷惑をかけてやったけど…。

プロ
―プロでの一番の思いでは?
 広島時代、優勝はかなりさせてもらったけど最後まで自分がグラウンドに立っていることがなかったんだ。でもヤクルトに来てからの優勝は自分も守っていて、しかも最後、自分の所にゴロが来たんだ。それが一番印象に残っている出来事だよ。

―その優勝した97年の開幕戦での3連発は?
 とにかく無我夢中だったんだ。広島からヤクルトに来てヤクルトの選手として認められたいってのがあったんだ。それに野村監督(現阪神監督)に出会えて、いろんな知識を吸収できて良かったと思っている。自分は本当に指導者、監督に恵まれつづけたね。

―江川さんに引導を渡したと言われる本塁打は?
 俺が感じるのは、あの時の江川さんはいつもの江川とは違っていたんだ。江川三手言うのは顔に出さないポーカーフェイスな感じで、ピンチやこいつだけには打たれたくないという打者にだけ力を入れて投げる投手だったんだ。それがあの試合だけは体から殺気が出ている感じがあったんだよ。

―プロに入ってくる後輩は気になりますか?
 特に気にしているという事はないんだけどね。でも挨拶にも来るし、やっぱり後輩だからね。活躍してくれればいいなと思って見ているんだよね。

「20年後また来いよ」

法大生へ
―法大生へのメッセージをお願いします。
 うーん。やっぱり人と人のつながりっていうのを大事にして欲しいよね。最後には人と人とのつながりが一番大切になってくるから。それも大学でのつながりっていうのは何年経っても切れない、いいつながりなので大事にしていって欲しいね。

小早川毅彦(38)
1961年11月15日生。PL学園から80年に法大に入学。在学中は歴代11位となる通産16本塁打を記録。特に2年秋には3冠王を獲得する大活躍で四度の優勝を経験した。84年ドラフト2位で広島に入団。97年にヤクルトに移籍し、今年、16年間のプロ生活にピリオドを打ち引退した。

 *この記事は1999年11号「創刊20周年特別記念号」に掲載されたものです。


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