【本田ルーカス剛史〈上〉】「自分のスケートを作ってくれた」山下艶子コーチとのノービス時代

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第29弾では、本田ルーカス剛史(21=木下アカデミー)を描きます。昨春同アカデミー所属の清水咲衣とペアを結成し、今年3月2日に閉幕した世界ジュニア選手権にも出場。シングルとの二刀流は今季限りで、今後はペアで世界を狙っていきます。

全3回の上編では、競技を始めた幼少期からノービス時代までを描きます。フィギュアスケートに引かれた理由、そして、日本フィギュア界の先駆者である山下艶子と二人三脚で練習に励んだ日々を振り返ります。(敬称略)

フィギュア

インタビューに答える本田

インタビューに答える本田

ルーツは南米一の大国、ブラジル

肩越しに、ブラジルののどかな光景が広がる―。成長した木々にはかぐわしい香りを携えただいだい色が輝き、その隣には大きな葉っぱに身を隠した細長い実がなっている。北の空に浮かぶ太陽は、それらの実に少しずつ彩りを分け与えていた。

本田の母親の出身地は、ブラジルの中でも「田舎の方」。2歳頃に訪ねた記憶はなく、日本の真裏にある大国を肌で感じる機会はまだないが、そこで生まれ育った母の話を伝え聞き、その情景に思いをはせた。

「僕は日系ブラジル4世で、でも日本の血しかないです。母はオレンジとかバナナの農家をやっていて、にわとりとかも飼ってて。父はサンパウロの方なんですけど…。あんまり聞いたことないな」

ブラジル出身の両親の間に生まれた、日系ブラジル4世にあたる21歳。美しい響きのミドルネームに剛健な名を授けられ、2002年(平14)9月15日、大阪・岸和田市内で生を受けた。

ただ、「出身は関西」と自称するように、幼少期は引っ越しが続いた。岸和田市で生まれた後、2歳で石川・金沢へ。その後、幼稚園に上がるとすぐに兵庫・神戸に移り、数年後、また県内の尼崎へ移動した。

記憶が鮮明にあるのは、神戸に越してきてからくらい。記憶の奥にあるシーンを切り取ろうとすると、いつも公園で遊ぶ幼き日の自分が並んだ。

本田が幼少期に遊んだ生田川公園

本田が幼少期に遊んだ生田川公園

特に思い出深いのは、生田川公園。新神戸駅から徒歩10分ほどの場所にあり、生田川沿いを約1.6kmにわたって続く遊び場。春になれば、ソメイヨシノを中心とした美しいピンク色の桜が咲き乱れる花見の名所だ。それに、神戸・ポートアイランドにある大きな公園で遊ぶのも楽しみだった。こちらは少し遠いため、リラクセーションサロンで働く父が休みの日にしか連れて行ってもらえなかったが、車で出かける分、特別感が増して気分が高揚した。

「小さい時から、とにかく体を動かすことが好きでした」

1人っ子の本田は、キャッチボールをしたり、サッカーの練習をしたり。あるいは、買ってもらったお気に入りのローラースケートで駆け回ったりして、毎日のように、大きな背中を追いかけていた。

神戸市内を流れる生田川

神戸市内を流れる生田川

スケートとの出会い

出会いは突然だった。幼稚園の時。本田は、神戸市内の幼稚園で、スケート好きの母親を持つ男の子と仲良くなった。打ち解けた2人はいつも一緒に過ごすようになり、自然な流れで「一緒にスケートしに行こう」という話になった。

初めて氷の上に乗ったときの感覚は、今でも覚えている。

「一番最初は、思ったより不安定というか。でも、乗ってすぐは怖かったですけど、結構すぐに楽しいと思えましたね」

公園で遊んでいたローラースケートともまた違う、不思議な感覚。ただ、そのお母さんに「滑るより歩く感じ」と言われると、なんとなく滑る感覚がつかめるようになってきた。徐々にすーっと滑れるようになるのも、何とも快感。1日遊んでスケートに興味を持った本田は、その友達とともに、すぐに教室への入部を決断した。

入ったのは、神戸・ポートアイランドリンクで開かれている教室。そこでは、週2、3回、午前8時開始のレッスンが設けられていた。だが、スケートの魅力に取りつかれた本田は、そこでシューズを脱ぐことはしない。レッスン後も、一般営業が終わる午後3~5時までひたすら氷の上に立ち続け、練習に没頭した。

演技をする本田(本人提供)

演技をする本田(本人提供)

「当時は全然練習っていう感覚はなくて、その友達とずっと一緒に遊んでいた感じです。でも、僕より母の体力の方がすごいなって感じですよ。ずっと一緒にいてくれて、母ともちょっとだけ一緒に滑っていたので」

そう言うと、照れたような笑みを浮かべた。そんなに夢中になれる。相当な凝り性に映るかもしれないが「結構飽きっぽい性格で」と自身を表現する。

それまでにも水泳やサッカーの教室に通ったが、熱中できるものはなかった。サッカーは「押したりするのが苦手で…。思ってたよりも激しく体を入れたりするんだと思って、多分それで嫌になった」とやめることにし、水泳は「泳ぎ続けるだけっていうのが苦手」と単調な練習に飽きてしまった。「4泳法は覚えて」と両親から言われるがままに「じゃあ」と3、4年は続けたが、目的は、自由形、バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎの4つを習得することのみ。選手コースに進む道も勧められたが、全く揺らがず教室を去った。

だが、スケートは違った。

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スポーツ

竹本穂乃加Honoka Takemoto

Osaka

大阪府泉大津市出身。2022年4月入社。
マスコミ就職を目指して大学で上京するも、卒業後、大阪に舞い戻る。同年5月からスポーツ、芸能などを取材。