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増田恵子「私が歌いたい曲知っていた」

 作詞家阿久悠さん(享年70)の死去から一夜明けた2日、阿久さんが生み出した国民的アイドルのピンク・レディーの未唯(49)増田恵子(49)が、悲しみと思い出を語った。都内で会見した増田は歌手と距離を置くこだわりを持つ阿久さんがみせた優しさについて語った。

 ピンク・レディーの2人は、増田が都内で会見、未唯がテレビの生出演と、別々に阿久さんとの思い出を振り返ったが、思い出の曲として挙げたのは同じだった。15枚目のシングル「マンデー・モナリザ・クラブ」。「ペッパー警部」「サウスポー」「UFO」など大ヒット曲から比べれば、セールスも伸びなかった同曲は、デビューから3年後の79年に発表した。

 阿久さんは完成した詞を2人に見せた時、いつものように目を合わせず「本当はこういう曲を歌いたいんだよね。知っていたよ」と言った。大人の恋がつづられた歌詞を増田は「まさに私が歌いたかった曲でした。大人っぽくてすごく格好よかったんです」と振り返った。

 子供にも人気だった2人に対し、阿久さんと作曲家都倉俊一氏(59)が繰り出す曲は遊び心満載、夢の世界を歌う曲だった。増田は「毎回子供向けの曲が多くて、本当はもう少し大人っぽい曲も歌いたかった。でも大きなプロジェクトでしたから流されるしかなくて」。何も言い出せないまま、あきらめかけていた心を阿久さんに見透かされたように、「マンデー・-」が届けられた。

 阿久さんは常に歌手と距離を置く作詞家だった。近づきすぎ、知り過ぎれば、歌手のイメージに引きずられる。そのため、2人が恩師と食事をともにしたのは2回ほどだった。レコーディング現場には自筆の詞を届けるだけで、立ち会わなかった。人気絶頂期も仕事場で会うと「食べてるか? 寝てるか?」と目をそらしながら気遣うだけだった。「怖くて遠くて、偉大な存在でした」。

 当時、2人は周囲が計画した全米進出に乗っていくしかない状況だった。そのタイミングでそっと贈られた同曲は、どんなに急な流れの中でも、阿久さんが2人の心から目をそらしていなかった証しだった。増田は「いろいろなことを考えながら、歯車を後ろから押してくださっていたんです」と目を潤ませた。時代を築いた作詞家は優しさも一流だった。

[2007年8月3日7時55分 紙面から]

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