「怖さ120%」でも強い母校、郷土愛/星野氏編4

楽天の倉敷キャンプで笑顔を見せる星野監督(右)と長谷川氏(長谷川氏提供)

<大型連載「監督」:星野氏編(4)>

日刊スポーツでは大型連載「監督」をスタートします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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倉敷商元監督の長谷川登(69=同野球部OB会会長)と会ったのは、地元倉敷の郷土料理屋「浜吉」だった。1973年(昭48)から33年間にわたって指導を続けながら母校を計7度の甲子園出場に導いた名監督だ。

星野が明大に在学した当時は東京6大学で春のリーグ戦を終えると、毎年母校に顔を出すのが恒例になっていた。高校生だった長谷川が覚えているのは怖さの裏にあるこまやかな心遣いだった。

「田舎の高校なので、すべての練習を30球から40球のボールでこなしていました。星野さんは大学の投球練習で使ったボールを汚いバッグにたくさん入れてくるんです。普通はそんなことしませんよ。部長の角田さんから『星野が東京から持って帰ったボールじゃ』と言われて使うんです。我々にとっては新球と同じなので驚きました」

星野からの毎度の“差し入れ”に長谷川ら部員は感動したのかと思ったら大違いだった。

「まったく感動なんかしなかったです。だって怖さ120%でしたから(笑い)。当時はそれ以外の感情の入る余地はありませんよ。でもあんなことする人いませんよ。母校愛、郷土愛の強い方だったなと思いますね」

長谷川が監督として初めて甲子園出場を果たしたのは79年、28歳の夏だった。星野に報告すると電話口で一緒に泣いてくれたのだという。2回戦で牛島-香川バッテリーの浪商と対戦。ドカベン香川に右膝を地面に着いて左中間本塁打を打たれて敗退した。

また89年夏の甲子園で初のベスト8進出。1回戦で強豪東邦を2-1で破ったが、長谷川は翌日のスポーツ紙に掲載された中日監督だった星野のコメントに驚いた。

「正直勝てると思ってなかったんです。でも地元中日の監督なのに『愛知県の高校野球のレベルも上がったもんだな。あの倉商に善戦したんだから』と言ってるんです。こちらは大丈夫かなとヒヤヒヤしながらも笑いました」

星野は選手、コーチ、裏方の人たちや家族にも気を配った。奥さんの誕生日を調べて感謝の言葉を添えたバースデーカードと花を届けるなどして心をつかんだ。それはネックレス、腕時計、海産物であったりもした。

「勝ちにこだわる執念を感じたし、人をやる気にさせるうまさはさすがでした。わたしもグラウンドでは厳しかったと思いますが、ユニホームを脱ぐと自分をさらけ出すようにしたんです」

長谷川も“星野流”をまねて3年生部員の誕生日にボールペンをプレゼントしてきた。

「別れ際には決まって『なんかあったら言ってこいよ』と言っていただきました。親でも泣かなかったのに、星野さんが亡くなった後は1カ月ぐらい泣いてました」

“その気”にさせて統率する選手操縦術。長谷川は「もうあんな人は出てこないでしょうね」ともらすのだった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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