リーダーが燃えれば部下も燃える/星野氏編10

米国マイナーリーグを視察する星野氏(左)と近藤氏(ネクシィーズ提供)

<大型連載「監督」:星野氏編(10)>

<ネクシィーズグループ社長 近藤太香巳氏>

日刊スポーツの大型連載「監督」。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。第1弾は中日、阪神、楽天で優勝した星野仙一氏(享年70)。リーダーの資質が問われる時代に、闘将は何を思ったのか。ゆかりの人々を訪ねながら「燃える男」の人心掌握術、理想の指導者像に迫ります。

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ネクシィーズグループ(本社・東京)代表取締役社長兼グループ代表の近藤太香巳氏(53)は、星野仙一氏(享年70)と07年10月に若いアスリートを支援する「ホシノドリームズプロジェクト(HDP)」を設立した。19歳で起業し、ベンチャーの雄にのし上がった同氏は「リーダーが燃えれば、部下も燃える」と語った。

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星野は野球人生の恩返しとして、ネクシィーズ近藤にスポーツを通じた社会貢献活動を持ち掛けた。本気の若者を、本気で応援する人材育成プロジェクトを実施するため一般社団法人「ホシノドリームズプロジェクト(HDP)」を設立。星野がチェアマンで、近藤は企画・運営に携わった。

「監督と共感し合ったのは、マイナースポーツで好成績を上げてもスポンサーがつかない、金メダルをとっても遠征にも行けない。そんな厳しい状況でも、実力は世界のトップレベルで戦える有能な選手や若者を応援しようというコンセプトです」

米国スポーツ組織などを体験する「スポーツビジネスインターンシップ」、団体・個人に資金、環境面で支援する「ドリームサポート」の2つのプログラムに分かれる。スポンサー企業を募って、国内外で活躍したスポーツ選手(バレーボールの川合俊一氏やフィギュアスケートの荒川静香氏ら)や、教育・スポーツビジネスに精通した関係者をサポーターに招いた。

07年に星野と近藤は米大リーグ傘下でワシントン州にあったマイナーの1A球団を買収した。2人が出会ったのはこの時期だ。星野が「今の若者には修行、奉公がない」と出資したのも人材派遣と育成の一環だった。

大阪出身の近藤は高校を2度中退、19歳で営業拠点を高松に置き、50万円を元に「日本電機通信」を起業する。携帯電話、衛星放送、インターネットをスピーディーに普及させた日本一の販売代理店と評価された。34歳でナスダック・ジャパン(現ジャスダック)へ株式上場し、04年37歳で当時最年少創業社長として東証1部上場。LED照明やウィズコロナ商材を扱うネクシィーズ・ゼロ事業、電子雑誌などのメディア事業を核とし、成長した。

「監督は、北京五輪で負けたときにものすごく落ち込んでました。『野球なんかやりたくない。嫌いだ。もう2度とユニホームは着ない』と言ってたのに、楽天の監督になると言い出したのは驚きでした。巨人に勝つのが一番のモチベーションだったんでしょうね。実際に楽天は、東日本大震災の後でほんとに勝っていくわけです」

13年11月3日、日本シリーズ第7戦で巨人を3-0で下した。9回は前の試合で160球を投じて敗れた田中将大を投入。前夜、近藤は楽天オーナー三木谷浩史との食事後、帰り道に見つけた小さな神社に立ち寄って必勝祈願をしていた。

「あのタイミングでマー君をだして、『えーっ』と思いましたけど、マウンドからホームのほうに振り向いたときは“炎”がみえた。もし負けたら監督がめちゃくちゃ責められるじゃないですか。でもそれをやっちゃうところがあの人なんですよ」

近藤は「リーダーが燃えれば、部下も燃える。僕は、監督の生きざまが大好きで、以前に『お前みたいなやつが次世代の理想のリーダーだよ!』と言われたときは、本当にうれしかったですね」と話した。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京オリンピック(五輪)で日本代表監督を務め4位。11年楽天監督となって13年日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月、70歳で死去した。

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