「オヤジは墓場まで持っていった」/鶴岡氏編13

64年、日本シリーズで花束を受け取る南海鶴岡一人監督(左)と、阪神藤本定義監督

日刊スポーツは2021年も大型連載「監督」をお届けします。日本プロ野球界をけん引した名将たちは何を求め、何を考え、どう生きたのか。ソフトバンクの前身、南海ホークスで通算1773勝を挙げて黄金期を築いたプロ野球史上最多勝監督の鶴岡一人氏(享年83)。「グラウンドにゼニが落ちている」と名言を残した“親分”の指導者像に迫ります。

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東京オリンピック(五輪)イヤーだった1964年(昭39)、南海は2度目の日本一を達成した。阪神との日本シリーズは初めてのナイター開催になった。

鶴岡は外国人を巧みに操った。初戦にジョー・スタンカの完封で先勝した。しかし、その後2勝3敗で王手をかけられると、大胆な投手起用にでる。

第6、7戦でスタンカを先発で連投させ、いずれもゼロ封で逆転日本一を遂げたのだ。甲子園での第7戦は五輪の開会式と重なって観客も約1万5000人にとどまった。

この年は五輪開催で厳しい日程が組まれた。阪神は公式戦最終日の翌10月1日から日本シリーズに突入する強行軍。主戦の村山実にバッキー、バーンサイドら助っ人中心だったが競り負けた。

鶴岡はスタンカ以外にも、ハドリ、ブルーム、ブレイザーら外国人操縦にたけた指揮官だった。阪神監督は“伊予の古だぬき”と称された藤本定義。「1番遊撃」の吉田義男は「スタンカ1人にやられた感じでした」という。

「スタンカは球が速くて手も足も出なかった。それとワンマンというか非常に扱いが難しいタイプだったと思いますわ。それが(59年の)杉浦の4連投もあったけど、外国人ピッチャーの連投でしたからね。鶴岡さんがうまく使いこなした」

計3度の阪神監督に就いた吉田は85年に21年ぶりのリーグ優勝、西武を下して球団史上初の日本一に輝いた。

「当時のうちと南海は仲が良くて、日本シリーズになると巨人戦の資料を提供したし、わたしも球団から指示されて話をしにいきました。鶴岡さんは親分といわれたように選手を引きつけながら、会社(球団)とも信頼関係を築いた。『グラウンドにゼニが落ちている』といわれて我々も激励された。杉浦、スタンカの連投が示したように勝ちにこだわった名監督と思います」

65年シーズン後の11月6日に辞意を表明した。監督20年の区切りだったが、17日未明に後任の蔭山和夫が急死。東京オリオンズ(ロッテ)、サンケイ(ヤクルト)から条件提示を受け、監督就任の記者会見の準備が整った。突然の訃報に事態は急展開する。

20日に3年契約で古巣復帰。どちらの監督を引き受けていたか真相はヤブの中だ。長男泰も「オヤジは墓場まで持っていった」と語った。それが声を掛けた2人のオーナー、オリオンズ永田雅一、サンケイ水野成夫への仁義だ。

南海復帰1年目の66年も西鉄の反撃を退けて優勝し、前年初の3冠王に輝いた野村克也がこの年も本塁打、打点の2冠を獲得。ただ8度目となった巨人との日本シリーズに敗れた。

67年4位。2リーグ分立後初のBクラスだったことが、いかに安定した強さをみせたかを裏付ける。68年は阪急と最終戦までもつれたが2位、23年間の監督生活は幕を閉じた。通算1773勝(1140敗81分け)で史上最多勝監督に君臨する。

笠原和夫、飯田徳治、別所毅彦、岡本伊三美、大沢啓二、D・ブレイザー、穴吹義雄、杉浦忠、広瀬叔功、野村克也、柴田猛(代理)ら教え子が南海、あるいは他球団で監督に就く。名将のDNAが継承された証しだった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆鶴岡一人(つるおか・かずと)1916年(大5)7月27日生まれ、広島県出身。46~58年の登録名は山本一人。広島商では31年春の甲子園で優勝。法大を経て39年南海入団。同年10本塁打でタイトル獲得。応召後の46年に選手兼任監督として復帰し、52年に現役は引退。選手では実働8年、754試合、790安打、61本塁打、467打点、143盗塁、打率2割9分5厘。現役時代は173センチ、68キロ。右投げ右打ち。65年野球殿堂入り。監督としては65年限りでいったん退任したが、後任監督の蔭山和夫氏の急死に伴い復帰し68年まで務めた。監督通算1773勝はプロ野球最多。00年3月7日、心不全のため83歳で死去。

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