石嶺が感じた落合監督と同じオーラ/上田氏編14

84年、リーグ優勝を決めて胴上げされる阪急上田利治監督

日刊スポーツの好評大型連載「監督」の第3弾は、阪急ブレーブスを率いてリーグ優勝5回、日本一3回の華々しい実績を残した上田利治氏編です。オリックスと日本ハムで指揮を執り、監督通算勝利数は歴代7位の1322。現役実働わずか3年、無名で引退した選手が“知将”に上り詰め、阪急の第2次黄金期を築いた監督像に迫ります。

    ◇    ◇    ◇ 

上田阪急でプレーした石嶺和彦は現在、沖縄を本拠にする社会人野球エナジックで監督を務めている。16年に阪急、広島、中日、南海で投手だった大石弥太郎から受け継いだ。

「阪急の練習は言葉で表せないほど厳しかったです。時間じゃない。緊張感があった。高校からプロに入って失敗したなと思いましたね。監督の姿が視界になくても、上田さんが近づいてくると来たなと雰囲気でわかった。中日コーチ時代の監督だった落合(博満)さんにもそういうオーラがありましたね」

沖縄・豊見城高で監督の栽弘義に厳しく育てられた石嶺だが、プロは中身が違った。「なんだこのオジさん軍団は…、みたいな感じで、別世界でした。5年やって1軍に上がれなかったらダメだろうと思いましたね」。

プロ入り当初は捕手だが、リーグ優勝した1984年から打撃を生かすために外野手に転向し、主にDHや代打で起用された。上田がオリックス監督を退任した90年には打点王にも輝いたスラッガーだった。

当時の阪急の練習は3人のノッカーが同時に左翼、右翼などに打ち分けながら、変形のシートノックで全員を動かした。複雑なボール回しも採用。マスコミは、同じ高知県内で行われていた阪神の安芸キャンプを生ぬるいと書き立てた。

沖縄・うるま市のエナジックスタジアム石川で指導する石嶺は「監督」の立場になって試行錯誤を続ける。「次の世代も考えるし、かといって負けられない。負けだすと若い選手に切り替えるというのは言い訳だと思う。ポジションが空いてるからどうぞじゃなく、勝ちながら育てるのが理想でしょうね」。

第2次黄金期を支えた山口高志は引退後、上田にコーチとして仕えた。「とにかく記憶力がいい。選手のときはあまり直接話す機会はなかったが、コーチになってからはよく怒られた」。沖縄・糸満キャンプの序盤、山沖之彦ら主力投手が投内連係の練習に参加したときのことだ。

「まだピッチャーが強い球を投げられなかったので、僕がかばったら『三塁に暴投したら1点入って負けるやないか!』とカミナリが落ちた。こっちは肩ができてないのはわかっていた。練習のための練習はいらんのじゃということでしょう。食事のときも『甘すぎる』『もっときつくやれ』とか言われました」

基本に忠実で激しい練習を徹底し、より実戦に近い練習を緊張感をあおりながら繰り返した。

「野手については、こういう場面だと〇〇選手が出ていくとか、自分は何をするかの役割をきっちりと分からせていた。走り屋、守り屋というのがいた。作戦面も同じで、開幕するときにはベンチの指示が瞬時に伝わって、もう自然と選手が動くまでにチームが仕上がっていました」

最後に山口は「あとは執念でしょうね。現役として実績を残せなかったから、監督、コーチになって勝つことこそがすべてと思ったのではないでしょうか」と付け加えた。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆上田利治(うえだ・としはる)1937年(昭12)1月18日生まれ、徳島県出身。海南から関大を経て、59年広島入団。現役時代は捕手。3年間で122試合に出場し257打数56安打、2本塁打、17打点、打率2割1分8厘。62年の兼任コーチを経て、63年に26歳でコーチ専任。71年阪急コーチに転じ、74年監督昇格。78年オフに退任したが、81年に再就任。球団がオリックスに譲渡された後の90年まで務めた。リーグ優勝5回、日本一3回。95~99年は日本ハム監督を務めた。03年野球殿堂入り。17年7月1日、80歳で死去した。

連載「監督」まとめはこちら>>