今のコーチには信念が見えない/広岡氏編8

78年、ヤクルト時代の水谷

日刊スポーツでは大型連載「監督」の第4弾として、ヤクルト、西武監督として、4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた広岡達朗氏(89)を続載します。1978年(昭53)に万年Bクラスで低迷したヤクルトを初優勝に導いた管理野球の背景には、“氣”の世界に導いた広岡イズムがあった。

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ヤクルトが初優勝した1978年(昭53)の正遊撃手は、水谷新太郎だった。ドラフト9位で指名され、三重高から上京して7年目。現在は「東京神宮リトルシニア」の監督で指導にあたる水谷は、中学時代の作文に夢をつづっていた。

「小さい頃は巨人ファンですが、ヤクルトに入ればレギュラーになれるんじゃないかと思って作文に書いたら現実のものになった。野球部監督らは体も細いし無理と思ったようで、確かにプロ入りした直後はカルチャーショックでした」

地元で教師になるのを望んだ母・美代子は反対したが押し切った。プロは別世界で、打球が打撃ケージから出なかった。左打者転向はコーチだった中西太の指導で、定位置をつかんだのは広岡の影響だった。

「プロで頑張ってだめだったら、故郷に帰るつもりでした。全然打てなかったし、守備も下手くそ。広岡さんは見るに見かねたと思います。ひたすらしがみつきました。身ぶり手ぶりで教えてくれるんですが、捕ってから投げるまでの動作がきれいで『すげぇ』と思った。どこに力が入ってるんだろうかと不思議でした。こんなに華麗でうまい人がいるんだと衝撃でした」

広岡は広島コーチ時代、小柄で非力な苑田聡彦(現スカウト統括部長)を正遊撃手に育て上げた。いったんは見放しかけたが、厳しい指導が実った。その成功体験をたどるかのように、未熟だった水谷に賭けた。

「特にフットワークはうるさかったです。打球に対する判断に、ボールは足で拾いにいくという手本を見せてくれました。いちばん言われたのは右側の打球の入り方です。今は高校生も、とにかく出なさい、そして投げなさいと教えられます。でも広岡さんは捕球から送球まで一連の動作じゃないと、ギクシャクするという。ちゃんと構えないとうまくいかないし、足の力を使って送球しなさいと習った。今の野球もだんだんそういうふうになってきています」

広岡は「今のコーチは信念をもって教えているように見えない。でもぼくよりコーチの方がきつかったと思う」と守備コーチの武上四郎、走塁コーチの丸山完二の熱血指導を評価する。

水谷を見初めたのは、荒川博から代わって監督に就いた76年シーズンだ。5月20日の巨人戦(岩手)で「2番遊撃」で初のスタメン出場。前日19日、同じ内野手の永尾泰憲と監督室に呼ばれた。水谷は「あしたからショートでいくぞ」と言われたことを覚えていた。

「水谷は足が速く、肩もいいから、『よーしっ』と思って教えた。来たボールを捕ればいいというのが今流だが、球がくる前にその気で構えないと捕れんぞというのがわたしの考えです。つまり準備万全で『さぁいらっしゃい』と構えるんです。今それができるのは今宮(ソフトバンク)ぐらいでしょうね」

監督として人材を見いだし、広岡イズムの浸透によって弱小チームは変貌していった。【編集委員・寺尾博和】(敬称略、つづく)

◆広岡達朗(ひろおか・たつろう)1932年(昭7)2月9日生まれ、広島県出身。呉三津田-早大を経て54年に巨人入団。1年目から遊撃の定位置を確保して新人王とベストナインに選ばれる。堅実な守備で一時代を築き、長嶋茂雄との三遊間は球界屈指と呼ばれた。66年に引退。通算1327試合、1081安打、117本塁打、465打点、打率2割4分。右投げ右打ち。現役時代は180センチ、70キロ。その後巨人、広島でコーチを務め、76年シーズン中にヤクルトのコーチから監督へ昇格。78年に初のリーグ優勝、日本一に導く。82年から西武監督を務め、4年間で3度のリーグ優勝、日本一2度。退団後はロッテGMなどを務めた。正力賞を78、82年と2度受賞。92年殿堂入り。

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