西本幸雄に次期監督要請 フラれても再アタック/吉田義男氏編4

84年10月15日、日本シリーズの解説の打ち合わせにテレビ局を訪れた西本幸雄氏を囲む記者ら。右は吉田義男氏

<大型連載「監督」:吉田義男氏編(4)>

日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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1984年(昭59)のセ・リーグは、監督10年目の節目だった古葉竹識の広島が4年ぶり4度目の優勝を果たした。北別府学、山根和夫、大野豊、川口和久の先発陣、小林誠二を抑えに配置。打は山本浩二、衣笠祥雄が中心で、再び“赤ヘル旋風”が席巻した。

阪神が次期監督として西本幸雄の要請に動くことを決めた10月13日は、広島市民球場で広島-阪急の日本シリーズが開幕し、初戦は広島がものにした。翌14日に阪神5代目オーナーの田中隆造が「西本さんが来てくれるのなら、会社を挙げて支えたい」と話し、西本招へいは白日の下にさらされた。

阪神は日本シリーズ後に交渉する意向を示したが、実際はその日のうちに極秘交渉に乗り出した。関西テレビ所属の西本幸雄はデーゲームだった日本シリーズ第2戦を解説。現場には日刊スポーツ評論家だった村山実をはじめ、田淵幸一、江夏豊、小林繁らOBも続々と球場に顔をみせていた。

関西テレビ解説者として吉田義男も広島入り。試合は2点を追う阪急が9回、簑田浩二のソロ本塁打から、福原峰夫の決勝打、福本豊のダメ押しなど6長短打を繰り出して大逆転勝ち。西本は古巣の勝利を見届けた後、新大阪行きの切符を手に新幹線に乗り込んだ。

大毎、阪急、近鉄で、監督として計8度のリーグ優勝を成し遂げた西本は、妥協知らずの厳しい指導で選手を鍛え、育てながら勝った名監督だった。

10月14日、日曜日。午後9時。辞任したポスト安藤の後任を西本に絞り込んだ阪神サイドは、広島で日本シリーズ第2戦が終わった夜、大阪市内で初めて意中の人と極秘裏に接触をはかった。

本社社長の久万俊二郎から密命を受けた西梅田開発室長の三好一彦は、大阪コクサイホテルの一室に現れた西本に名刺を差し出し、チーム事情を説明した。

三好は「社長の久万が直接お願いしたいと申しております。しばらくお待ちください」といって中座し、ホテル1階の公衆電話から阪神電鉄本社で待機していた久万に連絡をとった。

「久万社長にすぐいらしてくださいと告げると、高速道路を利用して、すぐに到着した。初対面の西本さんに監督をお願いしたが、丁重に固辞されました」

同じ関西私鉄が親会社でライバル球団の監督だったが、生前の久万はずっと西本イズムに心酔し続けた。最初から破談した要請だが、あきらめきれない阪神は翌々日の16日にも交渉の場をもった。それがまた、意外な展開をみせる。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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