究極の“仰木マジック”2種類のメンバー表 梨田昌孝氏が明かす秘話/仰木彬氏編1

95年9月19日、西武対オリックス 優勝を決め胴上げされる仰木監督

<大型連載「監督」:仰木彬氏編(1)>

大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。野茂英雄、イチローらを育て上げ、いまだに語り継がれる「10・19」の名勝負を演じた名将。阪神・淡路大震災が起きた95年は「がんばろうKOBE」を旗印に戦った。“仰木マジック”を支えたコーチとも、時に対立しながら頂点に立った。あの震災から、きょうで28年。強いチームにある「監督とコーチ」の関係の構図とは-。

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人はそれを“仰木マジック”と呼んだ。現役時代、西鉄ライオンズ一筋だった仰木は、中西太、豊田泰光、稲尾和久らスターの陰に隠れた存在で、決して名選手ではなかった。しかし、監督の座に上り詰めると、弱小だった近鉄、オリックスを優勝に導いた。

阿波野秀幸、野茂英雄、イチローらの選手育成から試合運びまでのチーム作りは、奇抜だった。メディアを引きつけて「パ・リーグの宣伝部長」とネーミングされたアイデアマン。独特の勝負勘で優勝争いをスルリと抜け出した。

仰木のプロ野球人生で際立つのは、監督に仕えた異例のコーチ経験の長さだ。西鉄で二塁手だった現役生活は計14シーズンだが、その後、近鉄バファローズ監督に就任するまでに、計20年間もコーチ業を務めた。

1988年(昭63)は球史に残る「10・19」で壮絶な戦いを演じた。ロッテとのダブルヘッダーに連勝すれば優勝という状況で、第1試合は逆転勝ちしたが、第2試合は引き分け。全国のお茶の間をくぎ付けにした悲劇の主人公になった。

阪急ブレーブスがオリックス(当時オリエント・リース)への球団売却を発表し、パ・リーグが激震に見舞われた10月19日。監督1年目に味わった屈辱を晴らしたのが翌89年で、9年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。

緻密なデータを重視し、独特の“ひらめき”が作戦のウエートを占めた。日替わり打線、代打策などの多彩な選手起用と戦略、戦術を繰り出した。後に近鉄監督として仰木オリックスと対決したのが梨田昌孝だ。

梨田が近鉄に入団したときの仰木は守備走塁コーチで、現役ラストの88年は監督だった。梨田は「おそらく知ってる人は限られている」と、初めて究極の仰木マジックを打ち明けた。

「年に数回のことでしたが、ゲーム前に監督同士がメンバー交換をするときに、仰木さんは2種類のメンバー表を左右のポケットに突っ込んでいた。そして先に相手の監督がメンバー表を差し出した中身を瞬時に見抜き、自分が用意していたどちらかのメンバー表を出すんですよ」

メンバー交換は、開始約5分前に審判団立ち会いのもと両監督によってホームベース付近で行われる。当時は予告先発ではなかった。仰木は先発投手の左右、相手の出方によって、とっさにメンバー表の提出を変えたのだという。

信じられない神業。いくら視力が良くてもできないだろう。目の前にパッと差し出されたスタメン表の内容に一瞬で反応し、左右どちらかのポケットから自軍メンバー表を取り出した。まるで“手品”のように…。

その後、オリックス監督として95年リーグ優勝、96年パ・リーグ連覇、日本一達成。セ・リーグに差をつけられていたパ・リーグ人気を盛り上げ、新時代へと導いた名将だった。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

◆仰木彬(おおぎ・あきら)1935年(昭10)4月29日生まれ、福岡県出身。東筑から54年に西鉄(現西武)入り。西鉄黄金時代の二塁手として活躍。67年引退。通算1328試合、800安打、70本塁打、326打点、打率2割2分9厘。西鉄、近鉄コーチを経て88年に近鉄監督に就任。同年の終盤には首位西武を追い上げ、迎えた最終戦10月19日ロッテ戦ダブルヘッダー○△でわずかに届かず優勝を逃した。翌年89年にリーグ優勝。94年オリックス監督に就任し、95年リーグ制覇、96年に日本一。04年に野球殿堂入り。05年に近鉄・オリックス合併球団の初代監督に就任するも、1シーズンで勇退。05年12月15日に70歳で死去。

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