【夢幻のグローバル・リーグ:第1話】1969年…男たちは羽田発62便に乗り込んだ

野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を探る不定期連載Season2は、国際化の先駆けとも言える、あるリーグに焦点を当てます。事実は小説よりも奇なり、全9回。(敬称略)

その他野球

ザ・ピーナッツにサイン入りバットを贈る森徹さん。「野球伝来150年 Season2」の主人公(森郁さん提供)

ザ・ピーナッツにサイン入りバットを贈る森徹さん。「野球伝来150年 Season2」の主人公(森郁さん提供)

「東京ドラゴンズ」 監督は森徹

紺のブレザーの左胸には、地球形(グローバル)のマークに〝TOKYO〟の文字が輝いていた。

時は53年前、場所は羽田空港。1969年(昭44)3月31日午後10時発、ホノルル経由ロサンゼルス行きの日航機62便に、大柄な男たちが乗り込んだ。タラップから振り返る25人は、笑顔で見送りの家族や仲間に手を振った。

「日本チーム代表として恥ずかしくない立派な野球をやってきます」

元東京(現ロッテ)の外野手で、中日時代の59年には本塁打(31本)と打点(87打点)の2タイトルを取った森徹の顔は紅潮していた。前年限りで引退し、新たに「東京ドラゴンズ」を率いる当時33歳の青年監督だった。

◆森徹(もり・とおる)1935年(昭10)11月3日、旧満州(現中国東北部)生まれ。終戦後は北海道・函館で暮らし、早大学院から早大に進む。東京6大学リーグでは立大・長嶋と同期で、強肩強打の外野手として活躍。2年時の55年春から3季連続を含む4度のベストナイン。58年に中日入りし、1年目の23本塁打、73打点は巨人長嶋(29本塁打、92打点)に次ぐリーグ2位。2年目で4番を打ち、31本塁打、87打点の2冠。1年目の58年から3年連続で外野手のベストナインに選ばれた。62年から大洋(現DeNA)、66年から東京(現ロッテ)。68年限りで引退。通算1177試合、971安打、189本塁打、585打点、打率2割5分1厘。オールスター5度出場。69年、グローバル・リーグの東京ドラゴンズで監督を務める。引退後は旅行代理店の経営など実業界で活躍。野球評論家も務め、マスターズリーグでもプレーした。武道の達人でもあり、柔道、合気道、空手で6段。11年から、全国野球振興会(通称プロ野球OBクラブ)の理事長。14年2月6日、肝細胞がんのため死去。78歳。現役時は173センチ、95キロ。右投げ右打ち。

東京ドラゴンズ、米国2、ドミニカ1、ベネズエラ1、プエルトリコ1

かつて、1シーズンだけ行われた国際野球リーグがあった。その名も「グローバル・リーグ」。日本からは東京ドラゴンズが参加し、米国2、ドミニカ共和国1、ベネズエラ1、プエルトリコ1の計6チームで結成された。

仕掛け人は、米国シカゴで不動産業を営むウォルター・J・ディルベックという人物。当時の報道によると「第2次世界大戦で活躍した歴戦の勇士」であり、イタリア戦線で名をはせた。その時にハワイの日系2世部隊の活躍を見て、日本びいきになったという。

真偽のほどはともかく、メジャーのア・リーグ、ナ・リーグに続く第3のリーグを掲げ、66年にグローバル・リーグ結成準備委員会を立ち上げた。

大リーグからは相手にされず、構想は暗礁に乗りかける。それでも諦めなかった。68年9月に来日。プロ野球関係者からも相手にされなかったが、日本チーム結成にこぎ着け、リーグ戦開催へと突き進んだ。

もっとも、リーグの行く末には、始めから暗雲が垂れ込めていた。

子どもの頃、平和台球場で見た情景がプロ野球観戦の原点。大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビアのセルビアやクロアチアの大使館に勤務したが、野球と縁遠い東欧で暮らしたことで、逆に野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。
その夏、斎藤佑樹の早実を担当。いきなり甲子園優勝に立ち会うも、筆力、取材力及ばず優勝原稿を書かせてもらえなかった。それがバネになったわけではないが、2013年楽天日本一の原稿を書けたのは幸せだった。
野球一筋に、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュアの担当を歴任。現在は侍ジャパンを担当しており、3月のWBCでは米・マイアミで世界一を見届けた。
好きなプロ野球選手は山本和範(カズ山本)。