【星野仙一さん追悼】56冊取材ノートから1万字超 命日に伝えたい…信念と生きざま
今年も1月4日を迎えました。星野仙一さんが70歳で亡くなり、8年となります。11~14年の楽天監督時代を取材した記者が、当時の取材ノートを掘り起こしました。書き留めた言葉の数々からは、星野さんの監督としての信念だけでなく、生きざまそのものが伝わってきます。
プロ野球
▼星野仙一特集▼
◆星野仙一(ほしの・せんいち)1947年(昭22)1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商から明大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。エースとしてチームを支え、優勝した74年には沢村賞を獲得。82年引退。通算500試合、146勝121敗34セーブ、防御率3・60。古巣中日の監督を87~91年、96~01年と2期務め、88、99年と2度優勝。02年阪神監督に転じ、03年には史上初めてセの2球団を優勝へ導き同年勇退。08年北京五輪で日本代表監督を務め4位。11年に楽天監督となって13年に日本一を果たし、14年退任した。17年野球殿堂入り。18年1月4日午前5時25分、膵臓(すいぞう)がんのため70歳で死去した。
「夜、ビルの屋上なんかで星を見るんだ」
引っ越すことになった。10年以上、住んだ家の1室は物置と化していた。これを機に、できる限り整理しようと考えた。
手始めに古い段ボールを開ける。出てきたのは、大量の取材ノート。数えると、全部で56冊あった。
私が現場に出ていた00年代後半から20年ごろまで、野球取材はノートにペンで聞いたことを記すのが一般的だった。スマホが当たり前で、さらにAIが発達した今では、録音と同時に文字おこしもしてくれる。紙とペンだけ、はひと昔前のスタイルになっている。
もう見返すこともあるまい。全部捨てようか。そう思ったが、手に取って開いた1冊に、こう書いてあった。
夜、ビルの屋上なんかで星を見るんだ。そこで自分の未来、夢や目標を考えるな。過去じゃない。過去の問題は1つ1つ解決しないといけない。
(13年4月1日)
赤い文字だった。監督のコメントは赤と決めていた。後からすぐ判別できるからだ。
楽天が初優勝した年。開幕直後に星野さんは、こんなロマンチックなことを言っていた。かすかな記憶が刺激される。そういえば、言っていた―。
56冊は捨てられない。数えたら、楽天担当時代のものは、4年間でちょうど半分の28冊。
録音ではないので、厳密には不正確なメモかもしれない。それでいい。記者のフィルターを通して、心に響いたものを書き留めたはず。
星野さんをしのぶ日。監督担当(キャップ)になった12年以降のものに偏るが、既出、初出含めて「星野さんの言葉」を紹介したい。
【2010年】
テーマを与えないと今の子は
テーマを与えないと今の子は分からないこと多い。昔みたいに、やれじゃダメ。課題を与え、コミュニケーションを取って納得させてチャレンジさせていかないと。結果がいいに越したことないけど、見るのは内容だよ。今、振り分けることはない。誰もいなくなっちゃう。
(11月8日)
就任直後の仙台での秋季練習で語った。選手との接し方はその後も一貫していた。
【2011年】
へそ曲がってないのはあいつぐらい
気をつけるのは女で失敗しないこと
(田中将大は)珍しく大投手の中で性格いい投手。投手は数え切れないほど見てきたが、へそ曲がってないのはあいつぐらい。へそが正面にあって。あと、気をつけるのは女で失敗しないこと。あいつには試合の白黒をつけさせたい。そういう投手、何人いたか。(川上)憲伸、今中ぐらいか。お前が決めてこいと。身体能力も高い。約束、果たしてないのは、女を紹介せんことぐらい。紹介せんと、4回2/3 で降ろすぞ。
(6月21日)
星野さんは最初から田中将大のことを買っていた。発言は、今のコンプラ的には…かもしれないが、愛情の詰まった言葉だった。
【2012年】
開幕直前の言葉。その日の1試合を勝ちにいく、星野さんの信念。
自分たちがどう変わるかが大事
相手がどうかは関係ない。自分たちがどう変わるかが大事なんだ。どうして、そう考えるか。俺が投手だからだと思う。自分さえ良い投球をすれば点は取られない。結果オーライは長続きしない。優勝争いの終盤ならいいが、今の時期にOKしたら本当の力はつかない。強くならない。
(4月14日、各チームとの対戦が1回りし)
同じ勝つでも、中身を重視していた星野さん。
ビッグネームの高校生が
キャンプでつぶれてしまうこと、多いだろう
釜田? ファームだろう。でも、ファームで抑えないと。いらんてなる。ジレンマなんてないよ。計画通りにやっているだけ。だから、キャンプでもブルペンさせなかった。ビッグネームの高校生がキャンプでつぶれてしまうこと、多いだろう。(中日監督時の近藤)真一のときも8月まで待ってノーヒットノーラン。「なんで、あの人が1軍に。俺の方が…」と(他の選手が)思うようにしないと。面白いもんで、2、3年かけて育てようとした選手でも、捻挫したり、風邪ひいたり。そういう選手はなかなか出てこないな。不可抗力? いや、どこかに油断があるんだ。だいたい、2、3割。順調に出てくるのは。
(5月6日)
この年のルーキー釜田佳直に関する質問から、若手の育成論を語った。
このままだと12球団のお荷物になってしまう
会社の経営方針は分かっている。予算の中でやらないといけない。ただ、無駄な金が多すぎる。人、全部代えないと変わらないよ。このままだと12球団のお荷物になってしまう。(球団創設から)もう8年だ。ふた昔だよ。この1、2年で変えないと、ずっと変わらない。やりがいあるな。「くそー、やってられないよ」と「やってやる」と両方思うこともあるけど。
(5月11日)
こうやって、球団に対する本音を記者にも語っていた。
運命は変えられるんじゃないかな
命を運ぶと書く
宿命は変えられないかもしれないが、運命は変えられるんじゃないかな。命を運ぶと書く。1つのところでダメでも、(命を運んで)もう1つのところで頑張ることはできる。俺は野球以外で運を使いたくないから、賭け事はほとんどやらない。でも、若い頃はマージャンもばんばん(パイを)切ってたが、監督になって経験、年齢変わり、いろいろ考えて切るようになった。俺は運いいと思うよ。何の努力をしたわけでもない。運で監督までやらせてもらっていると思う。人に感謝したり、そういうのはやってきたけども。
(8月24日)
監督の場合、運だけではないですよ、と思ったような…。
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1977年3月生まれ、福岡市出身。平和台球場がプロ野球観戦の原点。センター裏のうどんが美味しかった。高校ではラグビーにいそしんだが、背番号はだいたい18番。取材でも控え選手に引かれる理由かも。
大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビア諸国で勤務。街中を普通にプロシネチキが歩いているような環境だったが、サッカーには入れ込まなかった。むしろ、野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。斎藤佑樹の早実を皮切りに、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュア、侍ジャパン、NPBと担当を歴任。現在はデスク、たまに現場。
好きな選手は山本和範(カズ山本)。オールスターのホームランに泣いた。
