「3歩後ろを歩いていれば大丈夫」―原監督の相棒/エッセー〈4〉【ミズさん追想】

ボスに仕える「監督付」。日本で12人しかいない職業にふさわしい、人間味を備えた方が激務を担っています。巨人の原辰徳監督から最も深い信頼を得た、水沢薫さんとの思い出。(2019年11月15日掲載。所属、年齢などは当時)

プロ野球

◆水沢薫(みずさわ・かおる)1965年(昭40)2月18日生まれ。秋田商高から河合楽器を経て、86年ドラフト2位で巨人へ。92年に引退後、95年から06年までトレーニングコーチを務めた。08年から運営部1軍監督付となり、原監督のサポートに尽力した。14年1月、肝不全のため48歳で死去。愛称は「ミズ」「ミズさん」。

「宿舎マーク」と呼ばれる、主に若手の番記者が任される仕事がある。

遠征先のチーム宿舎に詰めて、監督や選手の出入りをチェックする。「働き方改革」がうたわれる今は、故障者の帰京や選手の移籍など、有事に限るケースがほとんどになった。かつては朝から居座る記者たちにホテルも関係者も面倒と思いつつ寛容で、ご丁寧に喫茶店のお茶券を渡してくれるチームが多かった。

10年前の盛夏、北海道・旭川のホテルでソファに身を投げていると、玄関からジャージー姿の大柄な男性が青ざめて駆けてきた。

巨人原監督付の「ミズさん」こと、水沢薫さんに「いいとこにいた。すぐ返すから2000円、貸してくれる?」と迫られた。宿舎マークをしようと自分のホテルから歩いてきた。財布は…机の上だな。「手持ちがないんです」。

「まじか~。時間が…フロントに借りよう」

「どうしたんですか?」

「監督と散歩してたら『旭山動物園に行きたい』って。そう言えば、空港からホテルに向かうバスの中で、やたらとガイドさんに取材してたんだよな」

「ミズさん、お金持ってないんですか」

「2000円はポケットに突っ込んできたけど、タクシーには乗れない。すまんね。じゃな」

フロントでお金を借りて飛び出していった。

翌日の試合前、グラウンドでミズさんに聞いた。「動物園、どうでした?」。

「夏休みだから家族連れで混んでたな。すれ違った人は、目を丸くしてた。『なんでここに原監督が』って思うよ」

「監督は動物園が好きですね」

「好きだね。凝視してたな。思えばWBCの時も、急に『サンディエゴ動物園に行こう』って。英語も話せないし、慌てたよ。教訓が生かされてないなぁ」

「記事にしてもいいですか。勝ったら」

「いいよ。何か言ってきたら謝っておくから」

水沢コーチを背中に担ぎトレーニングする巨人清原和博=2005年2月24日、宮崎

水沢コーチを背中に担ぎトレーニングする巨人清原和博=2005年2月24日、宮崎

5年後、ミズさんは病に屈し、48歳で亡くなった。球団は妻の美由紀さんに「若い子の面倒を見てくれませんか」と声をかけ、やんわり寮で働くよう誘った。

1999年入社。整理部―2004年の秋から野球部。担当歴は横浜(現DeNA)―巨人―楽天―巨人。
遊軍、デスクを経て、現在はデジタル戦略室勤務。
好きな取材対象は投手、職人、年の離れた人生の先輩。好きな題材は野球を通した人間関係、カテゴリーはコラム。
趣味は朝サウナ、子どもと遊ぶこと、PUNPEEを聴くこと。