【夢幻のグローバル・リーグ:第4話】失意のホテルで「カラカスの雨」 残る道は…

野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を振り返る不定期連載Season2は、国際化の先駆けとも言える、あるリーグに焦点を当てます。事実は小説よりも奇なり、全9回の第4話。貴重な証言者の登場です。(敬称略)

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東京ドラゴンズ当時の福井勉さん。ベネズエラの人が撮影し、デザインしてくれた(本人提供)

東京ドラゴンズ当時の福井勉さん。ベネズエラの人が撮影し、デザインしてくれた(本人提供)

スポーツ紙の募集記事で 福井勉氏の回顧

たまたま買ったスポーツ新聞の記事を読まなければ、福井勉の人生は大きく違っていただろう。現在80歳の本人は、1968年(昭43)11月ごろだったと記憶する。

「グローバル・リーグ 採用テスト開催」

滋賀・甲賀出身。当時26歳の青年は色めき立った。「これだ!」。

甲賀高(現水口高)では二遊間を守り、58年夏の甲子園に出場。1年生ながらベンチ入りした。銚子商(千葉)戦に代打起用されたが、二ゴロで最後の打者となり、初戦で敗れた。

卒業後は嫁いだおばを頼り上京。英語学校に通いながら、職を転々とした。繊維会社や百科事典のセールスマン。作曲家の遠藤実に弟子入りし、歌手を目指したこともあった。

草野球出身の元球児 テストで大当たり

そこで同じく作曲家の叶弦大と出会い、叶の軟式野球チーム「若葉プロ」に誘われた。草野球とはいえ、プレーを続けたことでグローバル・リーグ挑戦につながった。

「中学の頃、ベーブ・ルースとか、ルー・ゲーリッグとかの本を読んで、すごく憧れてました。とにかく、アメリカに行ってみたかった。あと、原爆を2発落としたアメリカって、どんな国なんだろうと。どういう人間性なのか、知りたかった」。

教会に通い、アメリカから来た牧師を相手に英会話を磨いた。

69年2月23日、神宮外苑で行われた入団テストは100人近く集まったという。まさか、元プロもいるとは思わなかったが、キャッチボール、トスバッティングと進んでいった。

「それからヒッティング(フリー打撃)。私は左打ちですが、左投げの元東京オリオンズ(現ロッテ)の竜隆行さんが投げてくれました。10本ぐらい打たせていただいて、8本ぐらい竜さんの顔面スレスレにセンター前。自分でもびっくりでしたけど、それが認められたと思います」

「グローバル・リーグ」の詳細を語ってくれた福井勉さん。目の強さ、手の大きさが野球人ならでは

「グローバル・リーグ」の詳細を語ってくれた福井勉さん。目の強さ、手の大きさが野球人ならでは

後に、監督の森徹から「高校を出て8、9年になるのに、よく、その技術を保持できたな。お前を見ていると、榎本喜八を思い出すんだよ」と言われた。天才バットマンになぞらえられ、うれしかった。

プロで活躍した選手たちもいる中、草野球出身の元高校球児という異色の経歴。福井は東京ドラゴンズの一員となった。

子どもの頃、平和台球場で見た情景がプロ野球観戦の原点。大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビアのセルビアやクロアチアの大使館に勤務したが、野球と縁遠い東欧で暮らしたことで、逆に野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。
その夏、斎藤佑樹の早実を担当。いきなり甲子園優勝に立ち会うも、筆力、取材力及ばず優勝原稿を書かせてもらえなかった。それがバネになったわけではないが、2013年楽天日本一の原稿を書けたのは幸せだった。
野球一筋に、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュアの担当を歴任。現在は侍ジャパンを担当しており、3月のWBCでは米・マイアミで世界一を見届けた。
好きなプロ野球選手は山本和範(カズ山本)。