【夢幻のグローバル・リーグ:第7話】力道山、石原裕次郎、長嶋茂雄…人を呼ぶ森徹

野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を振り返る不定期連載Season2は、国際化の先駆けとも言える、あるリーグに焦点を当てます。事実は小説よりも奇なり、全9回の第7話です。(敬称略)

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早大時代、何かを見つけた長嶋茂雄と=1957年10月10日

早大時代、何かを見つけた長嶋茂雄と=1957年10月10日

59年 本塁打と打点の2冠

1969年(昭44)のわずか1シーズン、正確には開幕から1カ月足らずで幕を閉じた国際野球リーグ「グローバル・リーグ」。日本から参加した東京ドラゴンズを率いたのは、元本塁打王&打点王の外野手、森徹だった。

◆森徹(もり・とおる)1935年(昭10)11月3日、旧満州(現中国東北部)生まれ。早大学院から早大に進む。東京6大学リーグでは立大・長嶋と同期で、強肩強打の外野手として活躍。58年に中日入りし、2年目で4番を打ち、31本塁打、87打点の2冠。1年目の58年から3年連続で外野手のベストナインに選ばれた。62年から大洋(現DeNA)、66年から東京(現ロッテ)。68年限りで引退。通算1177試合、971安打、189本塁打、585打点、打率2割5分1厘。武道の達人でもあり、柔道、合気道、空手で6段。14年2月6日、肝細胞がんのため死去。78歳。現役時は173センチ、95キロ。右投げ右打ち。

グローバル・リーグを終えた森は再び実業界に戻ったが、解説者を務めるなど、野球との縁は切れなかった。プロ野球OBによるマスターズリーグにも出場した。晩年は日本プロ野球OBクラブの理事長を務め、学生野球資格回復制度の改革に尽力。プロ野球OBが3日間の研修などで資格回復できる道を開いた。

素顔は、どんな人物だったのだろう。

稲川誠の回顧

「プレーは一生懸命だったね」

稲川誠は懐かしそうに話し始めた。元大洋(現DeNA)の投手で、中日から移籍してきた森と62年から4年間、チームメートだった。同じ東京6大学出身(森は早大、稲川は立大)。ポジションは違ったが、1歳上の森は、かわいがってくれた。

「『俺が森だ』って感じで、曲げない人だったね。肩が強くて、ライトからバックホームするとき、ノーバウンドで投げようと高めに放るんだ。本当は低めに投げないといけないのにね。川崎球場で守っているときにやじられ、つばをかけられて、フェンスを登って相手をスタンドまで追い掛けたこともあったなあ。楽しい人だった。大きなフライを捕ろうとフェンスをよじ登ったら、打球が前に落ちたりね」

子どもの頃、平和台球場で見た情景がプロ野球観戦の原点。大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビアのセルビアやクロアチアの大使館に勤務したが、野球と縁遠い東欧で暮らしたことで、逆に野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。
その夏、斎藤佑樹の早実を担当。いきなり甲子園優勝に立ち会うも、筆力、取材力及ばず優勝原稿を書かせてもらえなかった。それがバネになったわけではないが、2013年楽天日本一の原稿を書けたのは幸せだった。
野球一筋に、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュアの担当を歴任。現在は侍ジャパンを担当しており、3月のWBCでは米・マイアミで世界一を見届けた。
好きなプロ野球選手は山本和範(カズ山本)。