【長崎にプロ野球がやってきた:最終話】B29が飛んでいた空に…少年は白球を見た
野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を探る不定期連載Season3は、終戦から5年後、1950年(昭25)に長崎で初めて行われたプロ野球の公式戦を紹介します。国立国会図書館から提供いただいた1本の新聞記事を手がかりに、記者が時代をさかのぼっていきます。全3回の最終話。(敬称略)
プロ野球
5アーチ競演 15―4で西日本
1950年6月1日、長崎商グラウンドで行われた西日本パイレーツ―大洋ホエールズ戦。
西日本の7番左翼は、後の西鉄黄金時代の5番打者で、近鉄監督も務めた関口清治だった。3―0の4回、中越えへ10号ソロを放った。この1発を皮切りに、両チームあわせて5本塁打が乱れ飛ぶ打撃戦に。中盤、大洋が追い上げるが、終盤に西日本の打線が加速。15―4で勝利した。
長崎の人たちは、さぞ盛り上がっただろう。観戦した人の生声を聞けないだろうか。当時、長崎商1年だった元大阪タイガース内野手の河津憲一(88)は「グラウンドには行ったと思う。うすうす、覚えている」が、試合内容までは記憶にないという。
雑誌にファンの声が残っていた。「ホームラン」50年9月号に、長崎市から来た本田一郎という人の投稿が載っていた。
「(西日本)塚本の二塁への猛烈なるヘッドスライディング、(西日本)永利の一撃を見事ダイビング・キャッチした(大洋)長持の大喝采を浴びたファインプレーはさすがかつて東西対抗に出場した選手だけあって見事だった」
「レフトフライを(大洋)平山が塀際で好捕したが、もう一呎( フィート )も飛んでいたら得意の塀際での魔術が見物出来たと思うと残念だった」
打撃だけでなく、走塁や守備でもプロの技が披露された。目の肥えたファンも満足させる試合だった。
あらためて、当時の長崎日日新聞を開くと、1枚の写真に目がとまった。
試合当日、6月1日の朝刊。ユニホーム姿でバットを手に持つ3人の男の子たち。「バット・ボーイ四君が出場」という小見出しに続き、こうあった。
「野球は特に少年ファンに人気を呼んでいるが、当日のマスコットとしてつぎの四君がバットボーイとして出場する(写真は左より谷村、田島、松平の三君)。伊●林小五年谷村増雄、上長崎小五年田島忠男、佐古小四年松平和夫、銭座小一年森●征」
バットボーイが判明 長崎新聞元社長の松平和夫さん
古い紙面のため、判別が難しい文字もある。田島忠男は「照男」かも知れない。
いずれにせよ、地元の少年たちがバットボーイを務めたのだろう。生きていれば、80歳前後。彼らを見つけられないだろうか。名前を元に調べると、幸い1人に行き当たった。
松平和夫。長崎新聞社の社長を務めた人物だ。
ちなみに、長崎日日新聞は後の長崎新聞。同一人物であれば、なんという奇遇だろう。鳥肌が立った。ぜひ、話を聞きたい。
しかし、松平は既に亡くなっていたことが分かった。せめて家族に話を聞けないだろうか。取材を進め、電話番号を入手した。何度目かのトライで、和夫の次男、剛弥(50)とつながった。
会ったこともない私からの突然の話にも、熱心に耳を傾けてくれた。昭和25年当時、佐古小4年―。剛弥は私の説明を繰り返すと、こう続けた。
「父で間違いないです」
1977年3月生まれ、福岡市出身。平和台球場がプロ野球観戦の原点。センター裏のうどんが美味しかった。高校ではラグビーにいそしんだが、背番号はだいたい18番。取材でも控え選手に引かれる理由かも。
大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビア諸国で勤務。街中を普通にプロシネチキが歩いているような環境だったが、サッカーには入れ込まなかった。むしろ、野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。斎藤佑樹の早実を皮切りに、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュア、侍ジャパン、NPBと担当を歴任。現在はデスク、たまに現場。
好きな選手は山本和範(カズ山本)。オールスターのホームランに泣いた。
