【巨人週間〈2〉単独スクープの裏側】2015年9月26日付1面 原監督の去就報道

巨人特集。第2弾は「原監督解任」スクープの舞台裏です。7年前の番記者が、当時のやりとりを振り返ります。(所属、年齢などは当時。敬称略)

プロ野球

神宮で敗れた2日後の退任会見。普段通り、表情豊かに

神宮で敗れた2日後の退任会見。普段通り、表情豊かに

?高輪プリンス「光明」

2015年11月25日、高輪プリンスホテル名物の日本庭園。飛び石を駆けていると、ガラス張りのラウンジ「光明」に原辰徳を見つけた。

ソファに委ねて都心の紅葉を眺めていた。驚いた会釈にコーヒーをすするジェスチャーを合わせ、手招きを添えて破顔した。

昼から選手会労働組合のパーティーに出席。夕方、NPBから長年の功績を表彰されることになっていた。

25歳でプロ野球労組の選手会長になり、37歳で引退。ほどなく指導者となり、43歳で長嶋茂雄を継いで監督になった。最初は2年。2006年から、10年も指揮を執った。57歳で巨人軍の監督を辞し、一息ついたばかりだった。

原の取材に間に合わねば、と走っていた。当の本人が、こんなに体を楽にしている。慌てる必要はなくなった。

快晴の晩秋らしく、澄んだ陽ざしが静かに店内まで差し込んでいた。

「宮下くんは、いくつになる?」

「40です」

「質問がある。40代って、どんな世代なの」

「失われた世代、とか言われてます」

「よく聞くね。説明してよ」

「超のつく氷河期に就職して、うつむいて年を重ねたというか」

「就職浪人か。友だちにもいた?」

「いましたね」

「しかし、そんなに違うものかな」

「バブル入社、元気のいい方が多いです。うまく言えないんですけど、元気の中身が違うんです。からっとして」

原と話したのは、ちょうど2カ月ぶりだった。15年9月26日付朝刊の最終版で「原監督 解任も」と書いた。

15年9月26日の東京最終版1面。「ノド」と呼ばれる注目ニュースは「中日山本昌 引退」

15年9月26日の東京最終版1面。「ノド」と呼ばれる注目ニュースは「中日山本昌 引退」

「野球界も、当てはまる感じがする。先輩方の努力があって、なんとか、我々が継いできて。40代が頑張らないと、未来は明るくない。『オレが引っ張る!』って人が、あまり見当たらない。野球人口がどんどん減っていく。気概を持って、もっと前に出てきてほしいな」

「来年は、全球団40代の監督ですね」

「素晴らしいよね。由伸監督も負けないで、自分らしくやってほしい」

「そろそろ時間だ。行こう」と立ち上がった。

妙な感覚が残った。

高校を卒業したばかりの10代から、80代の球団トップまで。チームには、あらゆる世代がひしめいている。40代の気質など、あらためて自分に確認する必要はない。問わず語りの調子が不思議さを助長した。

去就ニュースを突っ込んだ9月25日の夜と、その翌日を思い出していた。

記者が抱いた、少し妙な感覚。スクープを書いた直後のやりとりから、初めての会話まで…原との記憶をさかのぼりながら「世代トーク」の雑談について考えます。

?優勝争いの剣が峰 

「原監督 解任も」。新聞が届く音を聞いて玄関を開けると、ドアノブに挟まった四つ折から大見出しが飛び込んできた。

巨人軍監督の去就を報じるに足る、インパクトを備えた1面に見えた。ただ…書いた身としては到底、前向きな気持ちにはなれなかった。今日という1日を、どうやって乗り切ろう。

投打がかみ合ったヤクルトを追い切れず、苦しい戦いが続いた夏場以降の巨人。「解任も」の報は、2差で追う直接対決の当日だった

投打がかみ合ったヤクルトを追い切れず、苦しい戦いが続いた夏場以降の巨人。「解任も」の報は、2差で追う直接対決の当日だった

2015年の巨人にとって、9月26日は大きな意味を持っていた。

1999年入社。整理部―2004年の秋から野球部。担当歴は横浜(現DeNA)―巨人―楽天―巨人。
遊軍、デスクを経て、現在はデジタル戦略室勤務。
好きな取材対象は投手、職人、年の離れた人生の先輩。好きな題材は野球を通した人間関係、カテゴリーはコラム。
趣味は朝サウナ、子どもと遊ぶこと、PUNPEEを聴くこと。