【帝京・前田三夫の人生〈1〉】30年も欠かさなかった「プレハブ小屋の瞑想」初公開
就任50年目の21年夏に勇退した帝京(東京)・前田三夫監督(72=現名誉監督)が、監督として過ごした半世紀を振り返りました。22歳の就任初日「甲子園に行こう」と呼び掛けたら、約40人いた部員が2週間ほどで4人まで減ったのは語り草。逆風のスタートから甲子園に26回の出場を重ね、歴代5位タイの51勝を積み上げ、3度の日本一に輝きました。今だから明かす秘話、勝負哲学、思い出に残るチームや選手たち、高校野球界へのメッセージ…9回連載です。
高校野球
顔をつくる
東京・板橋の帝京グラウンド。その脇に立つプレハブ小屋の監督ロッカーには、なぜか線香がしまわれていた。「誰にも言ったこと、なかったんだけど」と言って、前田名誉監督は1本を取り出した。まだ夕暮れ時。カーテンを閉め、日没後の暗さを演出する。闇が生まれ、何も見えなくなった。ライターで線香に火を付けると、1点の灯(ともしび)が浮き上がった。
「だいたい、20分から30分ですね。ジーと見るんです。線香が揺れますよね。もう、何も考えない。無心ですよ」
始めたのは、40代だという。選手や他の指導者たちが帰った後にやった。4強まで勝ち上がった昨夏の大会中も。ひそかな〝瞑想(めいそう)〟は、勝負師として欠かせないモノを備えるための儀式だった。それは「顔」だ。
「朝起きて、自分の顔つきを見るんです。あまりいい顔をしていない。まあ、もともと悪いんですけど」と冗談交じりに続けた。もちろん「いい顔」とは、男前か、どうかではない。「これじゃあ勝てないなあという時があるんです。そんな時は小屋を真っ暗にして、線香を立てる。こもるんです。ジーと線香を見る。そしたら、顔がつくれてくる」。選手の顔つきも気にしたが、自らの顔が「てれーんとしている」と感じたときは勝てなかった。それを変えるには目からと考え、線香の灯を見詰めるようにした。
50年目に勇退を決めた。
体は元気だ。トレーニングも続けている。それでも退いたのは「ユニホームが、あまり似合わなくなった。ちょうど50年。この辺でいいかな」と思ったからだ。
1977年3月生まれ、福岡市出身。平和台球場がプロ野球観戦の原点。センター裏のうどんが美味しかった。高校ではラグビーにいそしんだが、背番号はだいたい18番。取材でも控え選手に引かれる理由かも。
大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビア諸国で勤務。街中を普通にプロシネチキが歩いているような環境だったが、サッカーには入れ込まなかった。むしろ、野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。斎藤佑樹の早実を皮切りに、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュア、侍ジャパン、NPBと担当を歴任。現在はデスク、たまに現場。
好きな選手は山本和範(カズ山本)。オールスターのホームランに泣いた。
