【帝京・前田三夫の人生〈6〉】試合当日、ゲーセンで部員目撃の告白に「記事にして」

就任50年目の2021年夏に勇退した帝京(東京)・前田三夫監督(72=現名誉監督)が、監督として過ごした半世紀を振り返りました。22歳の就任初日「甲子園に行こう」と呼び掛けたら、約40人いた部員が2週間ほどで4人まで減ったのは語り草。逆風のスタートから甲子園に26回の出場を重ね、歴代5位タイの51勝を積み上げ、3度の日本一に輝きました。今だから明かす秘話、勝負哲学、思い出に残るチームや選手たち、高校野球界へのメッセージ…9回連載です。

高校野球

自主性で勝っちゃった

人を教えるということは、なんと難しいことか。50年も監督を務めた前田名誉監督でさえ「自分の指導が分からなかった」と述懐する時期がある。猛練習で3度目の日本一を果たした95年夏の後、一転「自主性」を採り入れた時期があった。「スパルタが終わって、今度は自主性の時代になった。いろんな監督さんが、はやり言葉のように『自主性、自主性』と。『帝京の野球は古い』ということも随分、言われました」。

そこまで言うなら、うちもやってみるか。98年、前田監督、49歳の時だ。夏の大会前、主将の森本稀哲(元日本ハム)に「お前たちで考えてやってみろ」と、練習メニューや練習時間を自分たちで考えさせた。

「そしたら、東東京で勝っちゃった。『ああ、こんな楽なことで勝てたのか』と思いましたね」

浜田戦の8回、同点2点本塁打を放った森本稀哲=1998年8月19日

浜田戦の8回、同点2点本塁打を放った森本稀哲=1998年8月19日

そのスタイルで勝った以上、甲子園に来ても「自主性」に任せた。それまでは練習以外は宿舎から外出禁止にしていたが、買い物を許した。

初戦を勝ち、次の浜田(島根)戦の日も試合前に出掛けることを認めた。そこで“事件”が起きていたとは-。

1977年3月生まれ、福岡市出身。平和台球場がプロ野球観戦の原点。センター裏のうどんが美味しかった。高校ではラグビーにいそしんだが、背番号はだいたい18番。取材でも控え選手に引かれる理由かも。
大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビア諸国で勤務。街中を普通にプロシネチキが歩いているような環境だったが、サッカーには入れ込まなかった。むしろ、野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。斎藤佑樹の早実を皮切りに、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュア、侍ジャパン、NPBと担当を歴任。現在はデスク、たまに現場。
好きな選手は山本和範(カズ山本)。オールスターのホームランに泣いた。