【帝京・前田三夫の人生〈7〉】野球好きを揺さぶった06年夏準々決勝・智弁和歌山戦
就任50年目の2021年夏に勇退した帝京(東京)・前田三夫監督(72=現名誉監督)が、監督として過ごした半世紀を振り返りました。22歳の就任初日「甲子園に行こう」と呼び掛けたら、約40人いた部員が2週間ほどで4人まで減ったのは語り草。逆風のスタートから甲子園に26回の出場を重ね、歴代5位タイの51勝を積み上げ、3度の日本一に輝きました。今だから明かす秘話、勝負哲学、思い出に残るチームや選手たち、高校野球界へのメッセージ…9回連載です。
高校野球
ワールドシリーズから学ぶ
「自主性」に任せた結果、甲子園には出たものの、負けても悔しがるそぶりを見せない選手たち。98年夏の出来事を、前田名誉監督は「野球が、ちょっと分からなくなった」と振り返る。そこで、大会後にアメリカへ渡った。「野球って、アメリカから出た。何かあるんじゃないかと」。野球の母国で原点を探す旅に出た。
パドレスとヤンキースのワールドシリーズ真っただ中だった。ヤ軍2連勝で迎えたサンディエゴでの第3戦から観た。結果、ヤ軍が4連勝で世界一となったが、敗れたパ軍ファンの姿に心をつかまれた。
「サンディエゴは負けてますけど、お客さんが、みんなスタンディング・オベーション。それを見て、これだなと。いろんな人に好かれなきゃダメ。勝つだけじゃダメなんだ。みんなをひきつけないといけない」
帰国後、選手たちを集め「変なヤジは飛ばすな」と伝えた。相手捕手がマスクを外したら「拾って、縦じまでふいて渡してやれ」とも言った。ただ勝つだけじゃない。進む道が見えた。
その8年後。06年夏の甲子園、準々決勝で智弁和歌山と死闘を演じた。4点を追う9回表に8点を奪い逆転しながら、投手を使い果たし、その裏に5失点。
1977年3月生まれ、福岡市出身。平和台球場がプロ野球観戦の原点。センター裏のうどんが美味しかった。高校ではラグビーにいそしんだが、背番号はだいたい18番。取材でも控え選手に引かれる理由かも。
大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビア諸国で勤務。街中を普通にプロシネチキが歩いているような環境だったが、サッカーには入れ込まなかった。むしろ、野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。斎藤佑樹の早実を皮切りに、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュア、侍ジャパン、NPBと担当を歴任。現在はデスク、たまに現場。
好きな選手は山本和範(カズ山本)。オールスターのホームランに泣いた。
