無名時代の正岡子規が残した果てなき野球愛「啼血始末」/祝! 野球伝来150年〈4〉

野球が日本に伝わり、2022年で150周年を迎えました。野球の歴史を探る不定期連載Season4は、野球の先覚者である正岡子規を紹介します。明治を代表する文学者ですが、学生時代からベースボールに熱中したことでも知られています。後に新聞記者としてベースボールを紹介するなど、野球文化の発展に貢献。2002年(平14)に野球殿堂入りを果たしました。しかし、子規は、なぜ野球にのめり込んだのでしょうか。まだ名もなき書生だった頃に書き残した文章に注目しました。

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★続々と命名「打者」「走者」「飛球」

今年の9月19日は、正岡子規が34歳の若さで亡くなって、ちょうど120年の日にあたる。

俳人として名高い子規だが、ベースボールとの関わりも深かった。1884年(明17)、東大予備門に入ると、学友たちと熱中。5年後の明治22年には郷里の愛媛・松山にバットとボールを持ち込み、松山中の生徒らにベースボールを教えた。

ペンネームの1つに「野球」も使用。幼名「升」(のぼる)に引っかけ、「のぼーる」と読ませた。

明治29年には、新聞「日本」に連載した「松蘿玉液」の中で、ベースボールのルールや用具を詳しく紹介。「打者」「走者」「飛球」などの訳語も創案した。ベースボールを読んだ俳句、短歌も残し、野球の普及に多大な貢献をした。2002年、新世紀特別表彰で野球殿堂入りを果たした。

「子規と野球」について書き記すと、ざっとこんなところになる。ただ、これだけでは見えてこないものがある。

なぜ子規は、そこまで野球に熱を上げたのか? 手掛かりを得たくて、松山にある子規記念博物館に向かった。

子規に関する豊富な展示や資料の中で「啼血始末」という文章に目がとまった。

★届いた「閻魔大王からの召喚状」

書かれたのは、1889年9月。この年は、子規の人生において重要な意味を持つ。5月に喀血(かっけつ)したからだ。結核の特効薬はまだなく、死をも意味していた時代。ベースボールに夢中になっていた若者に突然、暗い影が落ちた。

「啼血始末」は、血を吐いた経緯を記したもの。ところが、そこには死への恐怖や絶望など、みじんも感じられない。何より、設定が極めてユニークだ。「序文」を現代語で要約すると、こうなる。

「私が1日、本を読んでいると、ドヤドヤとした声がした。見ると、鬼の一群だ。私に手紙を渡し『これは閻魔(えんま)大王からの召喚状である』という。鬼に手足を引っ張られ、閻魔の法廷に入った」

子規の夢として書かれているのだが、閻魔大王が判事、牛頭赤鬼と馬頭青鬼が検事、子規は被告人となって話が進む。

「今日より、その方被告の病気につき、取り調べをするから本官および検察官の問いに応じて逐一答えよ」という閻魔大王の問い掛けから、やりとりが始まる。そうやって喀血の経緯が明らかにされていくのだが、ベースボールの話も出てくる。現代仮名遣いに改めて引用したい。

赤鬼「出京後もやはり散歩や運動はせぬか」

被告「これらは嫌いですが、ベース・ボールという遊技だけは通例の人間よりも好きで、餓鬼になってもやろうと思っています。地獄にも、やはり広い場所がありますか。うかがいとうございます」

赤鬼「あるとも、あるとも。そんなに好きなら、その方が来た時には鬼に命じて、その方を球にして鉄棒で打たせてやろう」

被告「へへへへ。これはご冗談は。鬼に鉄棒。なるほど、これは。へへへへ」

判事「黙れ、被告。地獄では笑うことは大禁物だぞ。それゆえ、この方はじめ皆々、苦虫踏みつぶした様な顔をしているのだ」

被告「それでも鬼の目に涙というから、お泣き遊ばすことはございましょう」

判事「その方は口の減らぬやつだなあ」

軽妙でユーモアに富んだやりとりが、全編にわたり続く。とても死を意識しているとは思えない。だが、締めの1文にドキッとさせられる。

判事大王「被告にも別に弁論なければ、今日はこれにて閉廷す。いずれ宣告は追ってすることであろう」

「宣告」とは、生か、死か、ということだろう。やはり「自分は肺病でこのまま死ぬかも知れない」という思いを抱きながら、書いていたのではないか。

★「餓鬼になってもやろう」

子規記念博物館の川島佳弘学芸員の指摘が興味深い。

「忘れてはならないのは、この時、子規は何者でもないということです。文筆家でもない。20歳そこそこの若者が、こんな文章を自発的に書いて、自発的に残している。活字になっているので、今の我々は発表するために書かれたと思うかも知れませんが、自分が好きで書いた文章なのです」

死ぬかもしれない若者が、発表するあてもなく書き残した。だからこそ、偽りのない本心を書いたと言えるでのはないか。

子どもの頃、平和台球場で見た情景がプロ野球観戦の原点。大学卒業後は外務省に入り、旧ユーゴスラビアのセルビアやクロアチアの大使館に勤務したが、野球と縁遠い東欧で暮らしたことで、逆に野球熱が再燃。30歳を前に退職し、2006年6月、日刊スポーツ入社。
その夏、斎藤佑樹の早実を担当。いきなり甲子園優勝に立ち会うも、筆力、取材力及ばず優勝原稿を書かせてもらえなかった。それがバネになったわけではないが、2013年楽天日本一の原稿を書けたのは幸せだった。
野球一筋に、横浜、巨人、楽天、ロッテ、西武、アマチュアの担当を歴任。現在は侍ジャパンを担当しており、3月のWBCでは米・マイアミで世界一を見届けた。
好きなプロ野球選手は山本和範(カズ山本)。