目が覚めたら北京のメダルが決まっていた…佐藤駿が過ごしたドラマチックな1年間

フィギュアスケート男子の佐藤駿(19=明治大)が4大陸選手権(日本時間13日まで米コロラドスプリングズ)で銅メダルを獲得しました。

あの日を思えば、信じられない躍進です。左肩の手術を受けた「22年2月10日」から1年を4大陸の期間中に迎え、去来した思いとは。

大会翌週の木曜日にコラムや現地発の話題をお届けしている「Ice Story(アイストーリー)」で復活劇を振り返ります。

フィギュア

〈4大陸選手権:男子シングル銅メダル〉

4大陸選手権男子メダリスト会見で喜びを表現する左から2位のキーガン・メッシング、1位の三浦佳生、3位の佐藤駿

4大陸選手権男子メダリスト会見で喜びを表現する左から2位のキーガン・メッシング、1位の三浦佳生、3位の佐藤駿

男子シングル上位成績 


順位名前SPフリー合計
1三浦佳生91.90189.63281.53
2キーガン・メッシング86.70188.87275.57
3佐藤 駿80.81178.33259.14

「この4大陸で3位っていうメダルを、去年の自分に見せてあげたい」

4大陸選手権のメダリスト会見で、佐藤は自ら切り出した。

「去年の今ごろは、ちょうど(左肩の)手術だったので。この4大陸で3位っていうメダルを、去年の自分に見せてあげたい」

言葉通り、昨年の2月10日に左肩の手術を受けていた。21年の10月と12月に同じ箇所を2度、脱臼していた。1年後、いたのは結果を出した時にしか座れない会見。話すことは決めていたようだ。前夜も親友の三浦佳生も「手術から1年なんだよね」と伝えていた。

◇  ◇  ◇  ◇ 

アンテナの低さを恥じるしかないが、詳細を知ったのは昨年4月だった。北京五輪、世界選手権(モンペリエ)までは、どうしても取材の中心が各代表選手になってしまう。国内の新年度を前に「佐藤駿選手は最近どうしてる?」と社内で聞かれ「確かに…」と答えられなかったことが発端だった。

明治大に進学することは聞いていたため、確認すると、入学式(22年4月7日)に出席するという。同月に延期されていた世界ジュニア選手権(タリン)代表の座を、左肩故障を理由に辞退していたので「そのあたりも聞くか」と思い、向かった日本武道館で驚かされた。

「2度目の脱臼をして、同じ左肩をやっちゃったので全日本の翌日にエックス線検査を受けに行ったら、お医者さんから『典型的な脱臼癖になってるね。手術した方がいいかもね』と言われました」

時期は「2月の頭」。同時期、自身は夢切符に届かなかった北京五輪が行われていた。

同郷の羽生結弦がクワッドアクセル(4回転半ジャンプ)に挑戦し、親友の鍵山優真が銀メダルに輝き、宇野昌磨も通算3個目のメダル獲得。一方の自身は手術という状況で、五輪を見て何を感じたのか。問われると、さらに、言ってしまえばドラマチックだった。

逆転3位に入るフリー好演を見せた佐藤駿

逆転3位に入るフリー好演を見せた佐藤駿

五輪フリー同時刻に左肩手術で全身麻酔

佐藤 ちょうどフリーの時あたりだったんで。(リアルタイムでは)見られなかったんですけど…。

――え、ということは手術日は10日?

佐藤 そうです。

執刀日が北京五輪の男子フリー当日だった。時間帯も同じ日本の午後だ。詳細を尋ねた。

――目覚めたら結果が出ていた?

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スポーツ

木下淳Jun Kinoshita

Nagano

長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメリカンフットボールの甲子園ボウル出場。
2004年入社。文化社会部から東北総局へ赴任し、花巻東高の大谷翔平投手や甲子園3季連続準優勝の光星学院など取材。整理部をへて13年11月からスポーツ部。
サッカー班で仙台、鹿島、東京、浦和や16年リオデジャネイロ五輪、18年W杯ロシア大会の日本代表を担当。
20年1月から五輪班。夏は東京2020大会組織委員会とフェンシング、冬は羽生結弦選手ら北京五輪のフィギュアスケートを取材。
22年4月から悲願の柔道、アメフト担当も。