「日本一嫌われた審判」家本政明の「日本一愛された」幕引き 転機となった一つの決断
SNS全盛の今、ひとつのつぶやきが大きく“世界”を変えることがあります。黙して語らず、それこそが美学とされていた審判の世界。その中で、ツイッターによる発信で新たな可能性を切り開いた、Jリーグの名審判の物語です。(敬称略)
サッカー
言葉ひとつが、誰かの背中を押すことがある。
言葉1つが、誰かの心を傷つけることもある。
SNS全盛のいま、それは顕著だ。
昨年12月。Jリーグの名物審判が勇退した。家本政明さん(48)。かつて「日本一嫌われた審判」と呼ばれたこともあるレフェリーは、「日本一愛された審判」としてピッチを去った。
そうなる過程に、1つの決断があった。
◆家本政明(いえもと・まさあき)1973年(昭48)年6月2日生まれ。広島県出身。同志社大卒。96年に1級審判員となり、02年からJリーグ担当。05年に史上6人目、最年少の31歳でスペシャルレフェリーに認定され、16年まで国際主審を務めた。J1では338試合、J2で176試合、J3で2試合の主審を務め、計516試合は歴代最多。副審としてもJ1とJ2でそれぞれ通算3試合を担当した。
主審でイエロー11枚、レッド3枚 後日処分の過去
20年10月。家本はツイッターを始めた。
選手、サポーターとの距離を近づける一助になった。批判も予想されるSNSをなぜ始めたのか。なぜアカウント名から「いえぽん」と親しまれ、愛され始めたのだろうか-。
それは、引退する約1年前のことだった。家本はスマートフォンを手にしていた。
「審判が色眼鏡で見られていることがあると感じていました。自分に何ができるか。(可能性が)ゼロじゃないなら、開示することによって、何かが変わるかもしれない」
バッシングも予想しながら、大きな問題に発展すればやめることも覚悟しながら、スタートさせた。
自戒を込め、「ブラックボックス」とまで家本が表現する審判の世界。閉鎖的にもみえるその中から、誰でも気軽に発信できるツイッターの世界へと、足を踏み入れた。
審判員人生は、まさに紆余(うよ)曲折だった。
04年に初めてJ1の主審を務めた。かつては、ボールを蹴って駆け回ったプレーヤー。「サッカーの主役は選手。極力ゲームの邪魔をしないように」。審判は求められた時にだけ出ていくもの。そう思っていた。
しかし、任される試合が重要で注目される大きなものになるにつれ、その信念を守ることができなくなっていく。
06年にはJ1リーグ戦14試合で71枚ものイエローカードを出し、1試合平均は同年のJ1主審最多となる5・07枚となった。
21年のリーグ1試合平均は1・80枚ということからも、当時の警告の多さは際立つ。
08年には新シーズンの到来を告げる恒例のゼロックス杯で、試合中のPKとPK戦で計3度の蹴りなおしを指示。この試合だけで、イエローカード11枚、退場者3人を出した。
混乱ぶりは大きく取り上げられた。後日、審判委員会から処分を科された。Jリーグ試合の無期限割り当て停止だった。
大好きだったピッチに立てなくなり、自分自身と向き合うしかなかった。
〈2008年3月1日のゼロックス杯鹿島−広島戦〉
家本主審は鹿島DF岩政に対して当該プレーの後、1分近くしてから2度目の警告を出して退場処分に。前半で両チーム1人ずつ退場者が出た。2対2の同点で突入したPK戦では鹿島GK曽ケ端が2度止めるも、いずれも先に動いたとやり直しを命じ、今度は2本とも決まって広島が優勝した。試合後は抗議する鹿島選手へ次々と警告を提示。怒った鹿島サポーター数十人がピッチになだれ込み、避難しようとしたが、控室へ入る寸前に鹿島ベンチ前へ進んでDF大岩へレッドカードを出した。合計イエロー11枚、レッド3枚が出た。後日処分が科され、約3カ月半の研修を経てJ2から復帰した。
取り締まるより、選手と、互いに尊重し「最少の笛で最高の試合を」と、審判を始めたころの信念に立ち返った。
17年以降は、1試合平均のイエローカードが5年連続で1枚以下となった。カードの数がすべてではないが、変化は明らかに数字になってあらわれた。
ずっと自分が正しいと思っていたわけではなかった。厳しく裁きながら、葛藤はあった。
「これじゃやっぱりおかしいよな、自分が知ってるサッカーとかレフェリーと違うと思っていました」
そんな悩みも、当時は世間に伝わることはなかった。
ミスをすれば話題になるが、審判は正しいジャッジを下して当然とみられている。的確に裁き、試合をうまく進めても、たたえられることはほとんどない。
まして内面、葛藤などが広く伝えられる機会は、ほとんどなかった。
そのもどかしさが、世間に自ら発信するきっかけとなった。
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1991年(平3)埼玉県春日部市生まれ。早大から14年入社。
整理部を経てアマチュア野球担当、阪神担当からサッカー担当に。
大学時代はインドの国民的スポーツ「カバディ」に夢中になり、全日本カバディ選手権で4強入り(出場6チーム)。