【爆走王の箱根駅伝〈下〉】髪を染めてほしくない。きっと今の子たちは耐えられない

箱根駅伝初出場で19位だった駿河台大・徳本一善監督の「誰よりも箱根にとらわれた人生」とは-。型破りな箱根ランナーが、指導者として駿河台大を初めての箱根へと連れて行き、しっかりとたすきをつなぎ、確かな1歩を踏み出した。そんな指揮官の指導と生き様。上下編の下。(22年1月6日配信。年齢、所属など当時)

陸上

02年箱根駅伝、リタイアし、うなだれる法大の2区徳本一善(中央)

02年箱根駅伝、リタイアし、うなだれる法大の2区徳本一善(中央)

「僕だって結構きましたから」

ある時、部のマネジャーから「髪を染めたい」と相談された。「ダメじゃないけど、ただカッコつけたいなら、駅伝部をやめてからやればいいじゃん」とアドバイスした。

「ウチの選手やスタッフには、髪を染めてほしくはない」。苦い経験からの親心からだった。

「世間から好奇の目で見られた時、きっと、今のあの子たちは耐えられない。僕だってメンタル的に結構きましたから」

法大時代、箱根駅伝に4年連続出場。1年が1区10位、2年が1区区間賞、3年が2区2位。絶対的エースだった4年当時は「心が壊れていた」という。

「1、2年は好きでやっていたのが3、4年からどんどんプレッシャーを感じてきて。人に会えば『お前が優勝に導け』と。とらわれたというか、優勝しか頭になかった」

大学NO・1ランナーとして出場した4年で花の2区を走り、右足肉離れを起こして途中棄権した。派手な見た目と強気な発言から注目度が高かった分、誹謗(ひぼう)中傷も受けた。

「箱根は僕だけのものではなく、タスキをつながないといけないもの。償い切れない」。周囲は「気にしなくていい」となぐさめてくれたが、心の整理はつかなかった。

同じ法大で2000年シドニーオリンピック(五輪)にも出場していた陸上男子400メートルハードルの為末大の言葉に救われた。

途中棄権から約半月後、大学内の練習場で、為末と偶然会った。短距離と長距離は同じ練習場を使用していた。しばらく話し込んだ。「目標だけは見失うなよ」と励まされた。

「ずっと五輪に行きたかったので、ここでつぶれていられない。できるトレーニングをしないと」。翌日から足を引きずりながらも、筋トレを再開させた。

当時、決意したことがある。「悔いのない人生を生きる」。途中棄権した事実は「忘れていないし、背負っているもの」と前置きした上で明かした。

「償えと言われても償えない。あの時のメンバーもそうですが、『頑張っているよね』と言われることで、あの時の失敗を少しは、ぬぐうことができるんじゃないかなって。あの時があったから、悔いのない人生が生きられているよと言えるようにだけは、しておこうと。糧になっているという意味では、あの失敗をネガティブに捉えてなくて。僕の人生にとっては、大事にしないといけないこと」

しっかり胸に刻んで生きてきた。

以前は途中棄権した箱根駅伝の夢をたまに見ていた。しかし、指導者として箱根駅伝の予選会を初めて通過した翌日から、気持ち良く寝られるようになった。

「やっぱりプレッシャーも持ってたし、ストレスかかっていたんだ」と気付いた。

「(それまでに)連れていきたかった選手を連れていけなかった罪悪感がめちゃめちゃ残っている。でも、許してもらえたじゃないけど、頑張っているぞ、というメッセージとして伝えられたのは良かったと思っています」

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スポーツ

近藤由美子Yumiko Kondo

Aichi

愛知県名古屋市生まれ。98年入社。経理部を経て02年に文化社会部。
芸能担当として15年以上、音楽、映画、テレビと全担当を経験。音楽担当時代、08年から16年1月のSMAP解散騒動直後までジャニーズ担当。
19年2月から社会担当として事件、政治、東京五輪を取材。
21年4月にスポーツ部。同年11月からゴルフ担当。22年春から本格的にツアー取材を行う。同年夏スコットランド選手権で古江彩佳の米ツアー初Vを取材。