【ポイチの原風景〈前編〉@広島】宮島で鹿のフンまみれになりながらスライディング

「広島から世界へ」。日本代表の森保一監督(57)にとって3度目となるFIFAワールドカップ(W杯)北中米大会が迫っている。コーチとして1度、監督として2度目の大舞台。歴代最多103試合を指揮し、勝率は約7割を維持する名将の原点「ポイチの原風景」を前後編でお届けする。前編はマツダSC(現サンフレッチェ広島)加入を機に移住した広島での日々について。当時を知る人々に聞いた。

サッカー




「サッカー日本代表 広島からエールを送る会」で巨大しゃもじを持つ広島県サッカー協会・宗政潤一郎会長と日本代表森保一監督

「サッカー日本代表 広島からエールを送る会」で巨大しゃもじを持つ広島県サッカー協会・宗政潤一郎会長と日本代表森保一監督

第2のふるさとで柔和な笑顔


2026年4月23日、日本代表の森保監督は「第2のふるさと」広島にいた。「サッカー日本代表 広島からエールを送る会」の主役として招かれていた。普段よりもどこか笑顔が柔和な感じがする。居心地の良い土地なのだろう。


97年5月24日、清水戦でシュートを放つ広島MF森保。右は清水MFサントス

97年5月24日、清水戦でシュートを放つ広島MF森保。右は清水MFサントス

すき焼き歓迎会で涙「なぜ僕は別会社なのか」


森保監督が地元長崎から広島に住み始めたのは今から約40年前。1987年、長崎日大卒業後に日本サッカーリーグ(JSL)所属のマツダSCに入団するためだった。同期は6人。他の5人は本社のマツダ採用だったが、森保監督だけ、関連会社の「マツダ運輸(マツダロジスティクス)」。今年4月16日に亡くなったサンフレッチェ広島初代総監督の今西和男さん(享年85)に見いだされたものの、無名選手だった森保青年の評価は決して高くなかった。マツダSCでコーチを務めていた河内勝幸さん(71)が当時をこう振り返る。

「確かその年は採用が5枠と決まっていて、今西さんが厚生部門の部長だったから人事と近くて、森保を6人目として別会社に押し込めたんです。歓迎会をやった時、すき焼きをみんなで食べました。今西さんと片付けていたら、森保が泣きながら『なぜ僕は別会社なのか』と聞きに来たことがありました。一応、採用の事情を説明したんですけど、やっぱり気になるんだなと思いましたね」


森保監督がマツダSC時代にかつて練習場として使っていた包ケ浦自然公園。鹿がくつろいでいる

森保監督がマツダSC時代にかつて練習場として使っていた包ケ浦自然公園。鹿がくつろいでいる

その数は1頭や2頭ではない

その数は1頭や2頭ではない

牧歌的な光景だが…

牧歌的な光景だが…

「グラウンドというより野芝」


悔しさから始まったサッカーキャリアの原風景が、有名な景勝地に残っていた。宮島口からフェリーで10分。厳島神社で有名な宮島だ。島に到着すると、乗り場から南西側にある大鳥居ではなく、北東に向かう。約3キロ。包ケ浦海岸を過ぎると、包ケ浦自然公園が出てくる。一見、サッカーコート2面分ほどの原っぱ。現在は閉鎖されているが、ややさびついたサッカーゴールのそばで鹿が数頭、気持ち良さそうにたたずんでいる。

ここは当時、マツダが自前の施設の芝生張り替え期間に使っていた練習場だったという。森保監督が述懐する。

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スポーツ

佐藤成Sei Sato

2019年入社。高校野球の埼玉県担当後、文化社会部に配属。社会班として、常磐自動車道あおり運転事件や埼玉県知事選などを取材。
11月から芸能班に配置転換で、放送担当に。日本テレビ、TBSを受け持った。事務所はワタナベエンターテインメントやホリプロ、吉本興業など。
23年5月にスポーツ部へ異動。サッカー班として川崎フロンターレ、湘南ベルマーレ、A代表、U-23日本代表、なでしこジャパンの担当となる。24年1月アジアカップカタール大会、パリオリンピックなど取材。血液型B。