HP特別連載コラム

リレーエッセイ〜鬼殺し〜
早稲田スポーツ新聞会に伝わる伝統的な飲み会のコール、その名も「鬼殺し」。ただ「鬼殺し」という日本酒を回し飲みするという単純なものですが、なぜか盛り上がります。その理由はひとつに、上下関係を無視して「鬼殺し」をリレーしていくというところにあるのでしょう。なにもリレーできるのは「鬼殺し」だけではない、と考えたことから始まったこのコラム。前回の執筆者のテーマを次の人がつなげて書くという、リレーコラムです。少々苦しい結びつきもあるかとは思いますが、お許し下さい。

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前回「出逢い」を受けて
第35回 カベ
執筆者 増田理奈
 その日1日を過ごせば、必ず何らかの出逢いがある。いつもの仲間や道端ですれ違う人、満員電車に乗り合わせた人との出逢い。人とだけではない。人以外のモノとの出逢いもまた出逢い。

 モノでも、目に見えないモノとの出逢いだってあるだろう。ひょっとしてそっちのほうが多いのではないか、と考えることもある。そうやって考えるときりがないくらいなのだけど。いずれにしても、出逢いは楽しみである。しかし、中には自分を憂鬱にさせる出逢いもある。それは「カベ」だ。

 ここでいうカベというのは、人生を1つの道に例えると、自分がこれから行こうとする道を阻んでいるもののことだ。人によって形は異なるだろうけど、誰でも出逢うことがあるはずだと思う。私は、カベと出逢っても、気づかなかったり、見過ごしてしまったりする。しかし最初は気づかなくとも、そのうちそこに何らかのカベが立ちはだかっていることに気づく。だが、カベを越えるのが面倒であったり、無理だろうと感じてしまったりすると、知らなかったことにしてカベを避けて別の道から行くことを試みる。カベを越えるのは勇気がいることだ。

 カベは目に見えない。だからどうしたらそのカベを崩すことができるのかは、遠目で探ろうとしても駄目だろう。実際にそのカベとあたって、向き合ってみないと、わからないのではないか。私はこれまで幾つのカベを避けてきたのか数知れない。しかし、そうしたカベと向き合う時は遅かれ早かれ必ず来ると思う。カベと向き合うのは大変だ。けれど、1つ1つ崩していくしかない。ちょっとずつ、スモールステップで。カベを1つ崩すごとに、今まで見えなかった何かが見えてくるだろう。

 私は、身の周りのことに対して、楽観的に考えてしまう傾向がある。カベに向き合っているつもりでも、いつの間にか「何とかなる」と済ませてしまう自分がいる。でもそう思ったほうが気が落ち着くし、何とかすればそれでいいか。私はスモールステップでいこう。そして様々なカベとの出逢いを少しずつ自分の経験値にして大人になろうと思う。「自分はこれだ」というのを掲げながら。

 ではミスター長嶋くん、「カベ」について語ってください。カタカナばかりですいません。お願いします。
次回の執筆者は長嶋航平です

前回「後悔」を受けて
第34回 出逢い
執筆者 清水建夫
後悔で回ってきたのはいいのだけど、すっかり言いたいことは言われてしまいました。とにかく後悔なんてしないに越した事はありません。大切なのは、今です。

さて、今は10月。いつの間にか夏も終わり、風の中にキンモクセイが香る季節になりました。トイレの芳香剤なんていう不名誉なイメージもあるみたいだけど、あの優しい香りがすると僕は毎年秋が来たなぁって思います。

秋といったら食欲の秋。松茸、秋刀魚、ナスと旬の食材がもう店頭に並んでいますね。突然ですが僕は、「幸せは食にあり」と思っています。だって、美味しいものを食べているときって、無条件に幸せじゃないですか?一緒に食べる相手やシチュエーション、見た目といった要素も関係してくるけど、うまいものが不味く感じることって滅多にありません。うまい!って最後に判断するのは自分の舌だから。そして食べることというのは出逢いでもあると思います。新しい味を求めて知らない店に入ったり、遠い昔の思い出の味を懐かしんだり、大好きなものを繰り返し味わったり。一度ハマッた味はなかなか忘れません。人の縁と似ていませんか?

だからこそ、日常が惰性になるのは悲しいことだと思います。忙しい毎日だけど、当たり前のことこそ、わかった気になったりやっつけ仕事にしないでよく考えないと。それこそ"後悔"してしまう。「1日3食、3度の出逢い」。そして1日の中で3回も幸せになれるって考えることができたら、忙しい毎日も、ちょっとだけ楽しくなるような気がします。

さて、次のお題は「出逢い」。2年生の中で20歳に一番遠い、ルーシーこと増田さんにバトンタッチ。
次回の執筆者は増田理奈です

前回「選択」を受けて
第33回 後悔
執筆者 風間俊樹
 私にとっての20歳の誕生日を迎える8月が過ぎ、はや9月。このエッセイを書いている今、暦の上では秋で、朝晩は涼しくなったけれど、昼間の暑さは夏と大して変わらない。むしろ今年は、8月より9月の方が暑いとさえ感じるほどだ。この気温が不安定な季節に、私はいつも誤った選択をしてしまっている。朝が寒いからといって秋服を着ていくと、汗がダラダラ。昼が暑かったからといって夜にTシャツ1枚で寝ると、鼻水がズルズル。清清しい朝だからといってめったにしないランニングをすると、筋肉がピクピク。結局は、違う選択をすればよかったと後悔している。日常の生活の中で直面する選択の場面は、数知れない。しかし、誤った選択をすると、後悔しか残らない。誇張した表現かもしれないが、人はいつも後悔と背中合わせなのではないだろうか。

 後悔。この言葉には暗いイメージを抱く人が多いが、決してそうではないとも思う。例えば、スポーツの試合で負けた際に味わう後悔。このときの後悔は、長い時を経て『雪辱』や『逆転』へ変えてゆくことができる。いつかの犯してしまった失敗をバネに、それを乗り越えようと長い間奮闘し、最後には満足のゆく結果、または勝利をつかむのだ。このような、後悔を雪辱や逆転へと変えてゆく間はきっと、いつか味わった後悔に支えられることができると思う。だから、どんな困難でも乗り越えられる。

 しかし、日常の生活の中で生まれる後悔となると、そうはいかない。長い時を経てしまうと、この後悔は『うじうじ』や『くよくよ』へと変わってしまう。失敗を乗り越えようと過去を振り返るあまり、いつか味わった後悔に引きずられたままになってしまうのだ。後悔を味わって、解決策を見つけようと後悔を振り返る。そして解決策を試みて、後悔を味わう前の自分と今の自分を比べてみる。しかしそこには美化された過去の自分がいて、その自分を越えていないことを知る。そして、再び後悔を振り返る。この螺旋にはまってしまうと、なかなか出口が見つからない。この場合の後悔とは、とても厄介なものだ。

 実際に私もことあるごとに後悔を引きずっていて、いつも後ろを向いていたと思う。しかし、後ろの世界は今までに私が歩んできた世界であって、結局は何も得ることは無かった。そして、最後にひねり出した答えは、前を向いてみよう、ということ。すると、色々なものがそこにはあった。なんか怒られたりけんかしたりする機会も増えたけど、新しいものがたくさん見つかる。そんな今は、とても充実していて楽しいと感じている。この気持ちをよく表している歌を、10代最後の日に見つけた。その歌の歌詞は、『足踏みせずに 言い訳もせずに 胸に抱き続けている/遥かな光まで 一歩ずつ/昨日の僕を 繰り返すだけの 明日にならぬように/少しでも踏み出してことを 誓いながら/部屋まで歩きながら 帰ろう/明日へ歩きながら 帰ろう』。いつまでも過去のことを見つめ直していても、新しいものは見つからない。時には困難にぶつかるかもしれないけれど、時には誰かを傷つけてしまうかもしれないけれど、これからは新しい何かがある未来を見つめてゆきます。そして、ただ優しいだけではなく、強くて、思いやりのあると言われるような男になります。

 以上、これから始まる20代の私の抱負でした。次は、2年生男子の中で一番若い清水健夫君でお願いします。言いたいことを言ってください。テーマは『安全』…じゃなかった、『後悔』で。
次回の執筆者は清水健夫です

前回「想像力」を受けて
第32回 選択
執筆者 鈴木昌恵
 最近、一番心に残っている小説に「もし、あの時ああしてたらって、自分のもうひとつの人生を勝手に想像して、それに嫉妬してしまう〜」(唯川恵『永遠の途中』)という一説がある。よく私もこんな風に考えては後悔ばかりしていた。想像力、時に余計なものかもしれない。想像できなかったら、現実に満足できるかもしれないのに。けれど、想像力とは信じる力。信じる力は、時に人を大きく動かす。

 昨年から、ワセダのスポーツを見ていて、負けた姿はあまり見たことがない。だからかもしれないが、ワセダが負ける姿は想像できない。試合前はもちろん、どんなに劣勢でも最後まで勝つと信じている自分にはっとしたことがある。私はこんなに信じる力があったのかなと。そんな時、「いいじゃん私くらい信じたって」と強気になって釧路まで行ってしまった訳だが・・・。信じて動き出したから、見えてきたものがたくさんあった。バカみたいだけど、生半可に信じるよりも百倍いい。そうやって他人のことばかり強気で信じているうちにだんだん自分のことも少しづつだけど信じられるようになった気がする。それは今までの後悔とか反省が消えていったわけではなく、今自分が決めたことを信じるということ。いろんな場面での自分の判断。多くの選択肢がころがっている。こたえは一つじゃないし、わからないから、それを自分で信じるしかない。

 日々の生活のなかで、煩わしいことは多い。だけど、明日のことを考えるとわくわくする。「明日はいいことがあるはず」と脳天気なことを考えたりもする。そして、私はよく目標を立てている。小さなものから、無理なもの、ただの憧れも、色々ある。たいていは目標ばかりが先行するのだが、それでも譲れないことや、大事な想いもある。そういう目標こそただ脳天気に信じているだけではだめで、叶えるには努力や体力や我慢が必要だ。それに叶えたい時こそ、自信がなくて不安になることも多い。それでも、始めの一歩は信じてみること。信じることは勇気が必要だけど、自分くらい自分を信じてあげていいと思う。

 さて、夏といえば花火。打ち上がってもすぐに消えてしまって寂しい気もしますね。夏は何度もやって来るけれど、今夏、大事な節目を迎えるのは私だけじゃないはず。次はその一人であるで風間ちゃん、「選択」お願いします。

次回の執筆者は風間俊樹です

前回「自分の理想とする生き方」を受けて
第31回 想像力
執筆者 高野健太郎
 「自分の理想とする生き方」。う〜ん、難しいですね。日ごろからそんなこと考えてもいませんでした。でも、いい機会なのでここで考えてみたいと思います。自分ってどうなりたいんだろう。

 さて、いろいろ考えて思ったことは感性を持った生き方。僕は感性とは感じる心と捉えています。要はあらゆることに素直に感動できる生き方がしたいです。感動とは共感であり、そこには想像力の豊かさが不可欠です。抽象論になりますが、人が感動するのはそれがただすごいとか美しいとかで感動するのではなく、それができるまでの背景を想像し、頭に描いて感動するのだと思います。例えば、早スポを例に挙げて見ましょう。僕は新聞それ自体をみてこのレイアウトはすばらしい!と感動することはあまりありません。でも、この新聞ができるには、早スポ部員みんなの努力が、ドラマが詰まっています。そうしたものを考えると、ただ一号の新聞を見るだけでも胸が熱くなります。「砂漠が美しいのはどこかに井戸を隠しているから」。こうした表面的には見えない部分を感じ取る感性を持っていれば、あらゆることに対して寛容に、あるいは感謝して生きていけると思います。そうした生き方が自分にとっての理想の生き方のひとつであり、大切なことだと思います。

 もうひとつあげるとすれば自信を持って生きていきたいですね。自信を得るためにはやはり努力が不可欠でしょう。何事に対しても頑張る、そう!頑張っていきたいと切に思います。突然ですがうちの近くには公園があり、その公園には蛙がたくさんいます。今の梅雨どきは帰り道でよく遭遇します。ふと気づいたんですが、蛙っていつも上を向いていますよね。胸を張って。彼らが堂々としているのは、おたまじゃくしのときから幾多の試練を超えて蛙に、立派になったという
自信があるんだと思います。何言ってんだかよくわかんないけど、蛙に負けないように頑張りたいと思う今日この頃です。

 さてさて、次回ですが自分自身、そして現代人に不足しがちと僕が勝手に考えている「想像力」について、まさえちゃんお願いします。

次回の執筆者は鈴木昌恵です

前回「現実と理想のギャップ」を受けて
第30回 自分の理想とする生き方
執筆者 穐田はるか
 では私にエッセイが回ってきたので語りましょう。

 私に与えられたテーマは「理想と現実のギャップ」。おそらく大多数の人が感じているだろう。少なくとも私は大学生活を始めてから理想と現実のギャップについて真剣に悩んだ。

 なぜ私が大学生活から悩み始めたかというと歳をとったからである。歳といってもまだ21歳だが、小学生や中学生の時のように将来の夢はと聞かれてこうなりたいといえなくなってしまった。現実を知ってしまったからである。小さい頃から夢にあふれその為に努力してきたが、夢は所詮空想論に過ぎないと冷めてしまい情熱的な生き方が性にあっていたのにつまらない理屈を述べるだけの女になってしまった。

 そんな時私にある人が教えてくれた。現実に敵意を示さないで、現実と素直に向き合って受け入れてみればと。現実を変える可能性にかけることも勇気だけど、変えられない事を受け入れることも勇気だって。つまり私はギャップという言葉に負けていたのだ。夢をおうことと現実を受け入れることは対照的にみえて実は全く別のものである。現実を受け入れることはかなりのエネルギーを費やした。しかし今それが財産となって蓄積されているのが分かる。

 今の私の理想はバラ色の人生を送ること。好きな人と共に歩み、好きな仕事をし、暖かい家庭を築き、女として妻として母としてまっとうすること。人からみれば無謀かもしれないが、こんな風になりたいと考えながら生活すると嬉しいことはさらに嬉しく、楽しいことはさらに楽しく感じられるようになった。もし現実なんてと考えている人がいるなら一度深呼吸して現実から逃げないで欲しい。勇気をもって。現実も悪くないと思える日がくるから。

 ということで理想と現実が一体化するように日々努力です。そこで高野君には「自分の理想とする生き方」について語ってもらいましょう。
次回の執筆者は高野健太郎です

前回「闘争心」を受けて
第29回 現実と理想のギャップ
執筆者 滑川善隆
 闘争心、気持ちを全面に押し出す、いうのが一般的なイメージだろうか。ちょうど、西武ライオンズの石井貴や日本ハムファイターズの岩本勉のピッチングには闘争心という言葉かよく当てはまると思う。マウンド上での雄叫びやガッツポーズは見るものを魅了するし、自分にとってもプラスの効果がある。「気持ちで乗り切る」よく聞く言葉だが、これこそまさに闘争心あってのものであり、気持ちを込めることによって自分の持てる力以上のものを引き出すのだろう。

 しかし、普段自分はそのように気持ちを押し出すということはあまりしないようにしている。人にはその人だけの信念や正義がある。それと同じように、自分には自分が理想として思い描く「強さ」があるのだ。そして、気持ちを全面に押し出す、闘争心は己の「強さ」とは相反するものである。

 さきほども述べたが、人は気持ちを込めることで、自分の力以上のものを引き出すのだと思う。しかし、それは逆に言えば己の力だけだはその場を乗り切れないことを意味するのではないだろうか、という考えが自分にはある。どんなときでも冷静に顔色一つ変えずにものごとに対処する。自分にとって「静」こそが「強さ」の重要な概念の一つなのだ。大リーガーの野茂英雄やイチロー、セリエAパルマの中田英寿のような人物像が自分が理想とする「強さ」をよく表している。どんなすごいことをやってみせても「これくらい普通だよ」と言わんばかりの態度とあのポーカーフェイスにじぶんは「これが強さなのだな」と感じずにはいられない。

 では、それを手にするために何をすればいいのか、正直よく分かっていないのが現実である。しかし、この疑問に対する明確な答えはないだろう。自分の信じることをやること唯一のことだ。それでも、そのようなことをしたときに自分は充実しているとは思わないし、満足することもない。充実・満足という言葉は聞こえこそいいが、ある時点で充実・満足していると自分に納得してしまっては、それより上へいくことはできない。そこで人を止めてしまうと思う。だから、自分は常に「自分に勝つ」という気持ちを持ち、何事にも納得することなくさらなる向上を目指している。
 
 と、いろいろ語ってきたが今の自分とは随分違うことばかりのような気がする。しかも結論も前回とほぼ同じような・・・まあ、自分の考えてりることなのだからそれはそれでよしとするか。それでは次回は「現実と理想のギャップ」について穐田さんに語ってもらおう。
次回の執筆者は穐田はるかです

前回「バランス」を受けて
第28回 闘争心
執筆者 佐藤香苗
 バランスなんて何ひとつ保ててない私がどうしてバランスについて語れるんだろうか。身長と体重、収入と支出、どれもこれもアンバランス。

 そういえば中学、高校でやっていた器械体操でもY字バランスとか水平バランスとかよくやっていた。でも大の苦手だった。よく「軸がしっかり通ってない」と怒られた。そうそう、軸が通ってないとフラフラしてうまくできないんです。バランスでもターンでもなんでも。

 器械体操をやめてもう2年半くらい経つ。今、私は体操ではない、あるひとつのことを日々の支えにして生きている。私はそのひとつのことからすべての+に向かう気持ちをもらっている。それについて考えるといろんなことをがんばれるし、すんごいへこんでても元気になれる。だって、キラキラしてるから。

 あのキラキラはなんだ?神か?とにかく、現在の私の生活はキラキラしたそれを中心に回っている。つまり私の軸となっている。軸が通ったからそう簡単にフラついたりしない。かなりいい感じだ。これからもずっと私を動かし続けるでしょう。どんな遠心力で振り回されてもついてく自信あり。

 毎日がこんな感じでキラキラのことを考えながら過ぎていき、もう1年が経った。はやかった。この先もきっとまたあっと言う間なんだろう。キラキラ大好き、でも負けないように私もキラキラしなきゃ。がんばっていかなきゃ。

 がんばるのってめんどくさい。私めんどくさいこと大嫌いなんですよ。けどがんばんないのはつまんない。けどめんどくさい。よくわかりません。とりあえず、いたって普通だけど、常に上を目指していこうと思います。負けたくないという気持ちを忘れずにいきます。闘争心はいつでも持って生きていきたいもんです。キラキラ!!

 では次は「闘争心」でなめちゃんお願いします。
次回の執筆者は滑川善隆です

前回「恋愛」を受けて
第27回 バランス
執筆者 吉津卓保
「恋愛とは、恋と愛が絶妙のバランスで成り立っているものである」

…いきなり悟ったようなことを言ってしまったが、自身が恋愛というものからもう2年近くも遠ざかっている身なので、かなりうさんくさい。つーか、そもそも恋愛なんてよくわからん。困る。まぁでも、せっかくだからちょっと真剣に恋愛ってどんなものか考えてみた。色々考えてみたが、結局その結論として冒頭の言葉に終着した。

僕が思うに、恋愛には文字通り「恋」の側面と「愛」の側面がある。どちらも一言で表してしまえば、前者が刺激で後者が安心感といったところだろうか。一般的に、恋愛は「恋」から始まるものである。なぜなら、相手から鋭い刺激を受けることにより、初めて自分の感情が目覚めるからだ。その刺激にはいろんな種類があるが、最もわかりやすい例は一目惚れ。見た目という刺激にやられるわけだ。別に変じゃない。すごく自然な感情。ただ、ここで注意しないといけないのはこの時点ではあくまで「恋」であって、恋愛ではないということだ。

では、恋愛のもう一つの要素である「愛」についてはどうだろう。僕はそれを言い換えれば安心感であると言ったが、それはすなわち信頼でもある。「愛」が生まれるにはどうしても時間が必要だ。なぜなら、信頼というものは、互いに深いところまで知りつくしていないと存在しえないからだ。一緒にいる中で、良い所も悪い所も知って、認めて、補って初めて信頼というものは生まれる。野球のバッテリーがよく夫婦に例えられるのは、信頼の築き方が夫婦のそれと似ているからではないか。その意味でバッテリー感にも「愛」がある。だから、僕が思うに「愛」に男女の垣根はない。

「恋」と「愛」。こうやって紐解いてみると、実は両者は相反するものであることがわかる。一方は例え1秒でも生まれるが、一方は例え何年かかっても生まれることがないこともある。恋愛とは、その相反する2つの要素が絶妙のバランスで成り立っている時に初めて生まれるものだ。これがどちらかに偏り始めたとき、それは終わる。とても壊れやすいものだ。それゆえに、それを気付きあげている二人をみると本気ですごいと思う。今の僕からすれば、奇跡のようにさえ思える。

話は飛ぶが、僕は生きる上で最も重要なものは、ものごとのバランスだと考えている。今回はこうやって恋愛を例に「恋」と「愛」のバランスについて考えてみたが、恋愛だけではなく、ものごとのバランスが崩れるとき、何事もうまくいかないように思う。

…しまった。恋愛に文字を使いすぎて肝心のバランスについて全然語れなくなってしまった(笑)そしたらそろそろ新歓の時期でもあるし、早スポの人科率をあげる意味も込めて、後は代わりに香苗に語ってもらおうかな。そんじゃぁ、よろしく!
次回の執筆者は佐藤香苗です
前回「憧れ」を受けて
第26回 恋愛
執筆者 永井佐和子
『憧れ』ですかぁ・・・・。難しいですね。では今回は、普段早スポでは書くことの無いだろう「恋愛」について書くことにします。

誰でも中学に入学すると、憧れの先輩ができますよね。女の子はもちろん、男の子だって綺麗な2、3年生に憧れると思います。校内でその先輩を見ただけで友達と大はしゃぎしたり、先輩の部活姿を見に行ったことはありませんか?何ででしょうね。小学校までは全然興味が無かったのに、中学生になっていきなりみんなして先輩に憧れ始めるのは。

『憧れ』って、恋愛の第一歩だと思うんです。
思春期に先輩に憧れを抱くのは、先輩=自分より年上の人=人生経験が長い=知識・経験が豊富 だからですよね。でも、告白がうまくいって付き合い始めたとたん、「こんなはずじゃなかったのに・・・。」なんてことありません?先輩のこと好きだったはずなのに、知れば知るほど嫌いになっていく。これはきっと、その人の嫌な部分、もっと言えば「暗」の部分が見えてしまったからではないでしょうか。恋愛したての中学生は、相手のいい所だけを好きになります。例えば、容姿がカッコイイとか、スポーツ万能!とか。だから、付き合ってその人の嫌な所が見えると、嫌いになってしまうんですよね。

でも、人を好きになるってその人のいい所ばかりじゃなくて、悪い所も含めて好きになることだと私は思うんです。「明」ばかりじゃなくて「暗」も。ってこと。ところが、それはとても難しい。なぜならそれは、その人のすべてを受け止めることと同じ事だから。そういう恋ってすごく素敵だと思いませんか?もちろん、悪い所は直すにこしたことはありません。時にはそれを注意してあげることも、大切なことだと思います。だって、自分の好きになった人にはどんどん素敵ななってもらいたいから。でも、好きな人の悪い癖とか、妙に人間らしい、ずるい所も好きになれたら、それは本当の恋愛ではないでしょうか。本当だなんて言いすぎかも知れないけど、私は今、そんな恋愛に憧れています。

恋愛は人を大きくさせる。なぜって、恋愛は自分を見つめなおすきっかけにもなるから。相手のことも気になるけど、相手に見られてる自分のことも気になってしまう。それが恋愛だと思います。

では、次のお題は「恋愛」についてにしましょう。前々から「恋愛」について語ってほしいと思っていたんです。 吉津くんおねがいします。
次回の執筆者は、吉津卓保です
前回「大感謝」を受けて
第25回 憧れ
執筆者 茂野聡士
 大感謝っすか…相当な感謝じゃないと許してくれなさそうですね(苦笑)さてさて、「マイペースで生きていくことが一番」と考えている自分でも、様々な人にお世話になっています。それは、家族であり、中学時代の友人であり、そして早スポでの先輩達であり…。その中でも特に、自分にとっての「大感謝」な人がいます。それは、中学、高校時代に通った塾の先生です。

 その先生は現代文の教師で、いつも面白い話をしてくれる人でした。また、静岡県出身ということもあって、とにかくサッカーを愛している人でした。部はおろか、学校にも所属してないのに、静岡学園サッカー部の練習方法をこと細かに語って授業を30分も長引かせたり、特別講座でサッカー講座を開いたり…サッカーに興味のない人がいたらかわいそうだなと、サッカー好きの自分がそう考えるくらいでした。でも、やっぱり自分もしゃべりたくて、授業が終わって日付けが変わるくらいまで先生のサッカー話をしていましたが。

 そんな先生が中学時代に毎週出していた課題、それは「400字レポート」でした。身の回りのことなら何を書いてもいいというもので、自分は迷わずサッカーのことを書き続けました。先生の熱いコメントを見るのが何よりの楽しみでした。そのレポートやサッカー話を覚えていた先生が、「大学に入って何かものを書くことに挑戦して、自分を出してみなよ」と言われました。その言葉は、自分にとって早スポでの活動の原点といっても過言ではありません。それくらい、自分の人生に影響を与え、今でも「憧れ」の人です。

 この先生のほかにも、自分は幼少の頃から「憧れ」やすい人間でした。憧れの人たちは全員何かしら人間的な魅力があり、自分の何パーセントかを形どっています。そんな人たちに共通したもの、それは素晴らしい情熱でした。ちょっとクサいかもしれないけど、やっぱり情熱を感じる人は光ってる。そんなかっこよさに「憧れ」を抱いたんだと思います。果たして、それが自分にできるのだろうか?生意気ながら。

もちろん自分自身が「憧れられる」ことは難しいとは思います。でも、たとえそれがひとりであっても、少しでも影響を与えられるくらいの情熱を見せられる人に、僕はなりたい。それが、サッカーでなくても、どんな小さなことでもいいから。そう考える今日この頃です。

というわけで、次はそんな同じ先生に習った永井ちゃんに書いてもらいましょう。テーマは「憧れ」で。
次回の執筆者は、永井佐和子です
これ以前のリレーエッセイは、こちらです→