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加藤博一さん肺がんで死去、56歳の若さで

 阪神、大洋(現横浜)などで活躍した加藤博一氏(野球解説者)が21日、午後0時54分に肺がんのため神奈川・横須賀市内の病院で死去した。56歳だった。加藤氏は大洋時代の85年には近藤貞雄監督(故人)の下で主に2番打者で活躍し、1番高木豊、3番屋鋪要と「スーパーカートリオ」を形成し一世風靡(ふうび)した。現役時代から「お笑いキャラ」として人気者だった。最近は指導者として現場復帰に意欲を見せていたが、夢はかなわなかった。23日に神奈川・逗子市内で通夜、24日に葬儀・告別式が営まれる。

 現役時代から「お笑いキャラ」で人気者だった加藤氏が突然、亡くなった。関係者によると、一昨年からがん治療で入退院を繰り返し闘病生活を続け、昨年2月には左肺を摘出。術後は仕事復帰したが、昨年6月ころから足に転移し歩くのも不自由な状態だった。最近は仕事も自粛し、現場に出る機会も減っていた。

 加藤氏の自宅に駆けつけて遺体と対面した佐々木主浩氏(日刊スポーツ評論家)は「安らかな顔で寝てるようだった。あの陽気な人が無言の帰宅なんて信じられない。ひと言では表せないくらいお世話になった人」と涙を流した。

 加藤氏は70年に西鉄にテスト生で入団した。俊足を生かすため73年からスイッチヒッターに転向。76年には阪神に移籍し79年に江川卓(巨人)から初本塁打をマーク。翌80年には江川から28打数11安打で打率3割9分3厘、2本塁打と「怪物キラー」として活躍した。

 83年には大洋に移籍、85年には近藤貞雄監督の機動力野球で1番高木豊、2番加藤氏、3番屋鋪の「スーパーカートリオ」を結成。高木が42盗塁、加藤氏が48盗塁、屋鋪が58盗塁と、プロ野球史上唯一となる3人が40盗塁以上を記録した。

 現役時代から社会福祉活動には熱心で、よく体が不自由なファンを球場に招待していた。また施設に通う耳の不自由なファンたちを阪神戦に招待した際、バッターボックスに入る前にバットでヤリを突くポーズを見せて、加藤清正の「虎退治」と「加藤」をかけて喜ばせたエピソードがある。常に「人を喜ばせるのを意識した」人だった。

 引退後には明るい性格と巧みな話術で自ら「笑いがとれる解説者」とタレント性を発揮。お茶の間のファンも多かった。その一方で野球の知識や技術論も豊富で、佐々木氏やアストロズ松井稼頭央ら信奉する選手も多数いた。佐々木氏がマリナーズ時代にキャンプ中の球数制限で苦労する中、フォーム固めの一環でカーブを投げて調整する方法は同氏のアドバイスからだった。松井にはスイッチヒッターの練習法から、さらにメジャーの挑戦の際には代理人の選択、契約の詳細までアドバイスを送った。

 ただタレント性があるゆえに指導者としての道は厳しいものだったが、最近は現場復帰を熱望。「コーチとしてユニホームをもう1度、着たいな。後輩にいろいろとアドバイスできないのが、つらいんだよな。コソコソやるのは性に合わん。メジャーも勉強できたし、日米ミックス型の指導者になりたい」と本音を漏らしていたが、願いはかなわなかった。

[2008年1月22日10時52分 紙面から]

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