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後藤新弥の「スポーツ&アドベンチャー」

2007年07月10日更新

播隆上人の一里塚見つけた!!

飛騨・笠ケ岳を再興、ウエストンより早く槍ケ岳に初登頂

 夏草、木漏れ日の中、播隆上人の足跡を追って岐阜県上宝の笠谷へ分け入った。19世紀、日本アルプスの父ウエストン(イギリス)が活躍する半世紀以上も前に飛騨の名峰笠ケ岳(2898メートル)を再興し、その後槍ケ岳にも初登頂したのがこの人だ。一里塚代わりに石仏を置き、より多くの人を山に導こうとした。廃道となったその南西尾根ルートをたどってみた。4つ目の一里塚跡をようやく見つけた。その時タヌキのうんこを踏んだ。



大岩に70センチの洞、石仏台座の平たい石

これだ! 笠谷の奥深く、播隆上人の4つ目の一里塚跡を見つけた。中央下部のくぼみに石仏が置かれていたという。標識もあったがクマに半分かじられていた(和合正撮影)
これだ! 笠谷の奥深く、播隆上人の4つ目の一里塚跡を見つけた。中央下部のくぼみに石仏が置かれていたという。標識もあったがクマに半分かじられていた(和合正撮影)

 林道は2キロ手前で崩壊し、際どいがけっぷちを歩いた。ピンクのテープを目印にうっそうとした夏草の斜面に下りた。大きなシダの葉に腰まで埋まった。

 湿った曇り空がいきなり晴れて、風が止まった。笠谷本流のせせらぎが約100メートル下から聞こえてくるが、まるで亜熱帯のような蒸し暑さだ。標高約1500メートル、夏はどの山も森林限界手前が一番苦しい。草に絡まり、岩の間にずぼっと落ちた。

 滝の写真で有名な和合正さん(66=岐阜県下呂市)が同行している。荒れた所はお手の物。ナタで足元を切り開き、けもののように身軽に動く。こっちは出来合いの登山道専門だ。汗にまみれて岩陰にへたり込んだ。ぐにゃり。タヌキのうんこを踏んでいた。運の「尽き」だ、もう駄目か。

 いや、ついていたのだ。和合さんが叫んだ。「おう、あった。そこや」。振り仰ぐと、大岩の真ん中に高さ70センチほどの洞がある。台座らしき平たい石が! 4体目の石仏一里塚が置かれていた場所だ。



村民と道を開き、66人連れて集団登山

上宝郷土研究会・川上岩男会長
上宝郷土研究会・川上岩男会長

 富山県大山町出身の播隆上人(1786~1840)は槍ケ岳初登頂で有名だが、その原点となった1823年(文政6)の笠ケ岳再興登山は、関係者の間でより高く評価されている。

 笠ケ岳は槍や穂高の北アルプス連峰に、飛騨側からたった1人で向き合う大きな山だ。江戸初期から円空上人、南裔(なんねい)禅師らが開山したが、その後絶えたままになっていた。

 上宝郷土研究会川上岩男会長(73)「上人が浄土宗の僧として当地を訪れたのが1821年。岩井戸の岩屋で修行し、2年後に本覚寺椿宗和尚の勧めで笠ケ岳再興を決意した。6月に下見した後、村民とともに笠谷沿いの仕事道を利用して登山道を切り開き、7月29日に登頂成功。8月5日に村人18人、翌年同日には66人を連れた集団登山に成功したと記録されている」。

 笹島の観音堂を起点として、頂上までの9里8丁約40キロに一里塚の石仏を8体置いた。1~4体目と南西尾根上の8体目が発見されて地元に保管されているという。ならばその一里塚を拝みに行きたい、歴史に触れたい。川上さんに4体目跡の大まかな位置を聞いて出た。正直、見つけられるとは思わなかった。



5~7体目は謎、ロマンは夏草に消え

シダをかき分け、朽木を乗り越えて播隆上人ルートを探し求めた
シダをかき分け、朽木を乗り越えて播隆上人ルートを探し求めた

 石仏の置かれていた大岩は草に囲まれ、歳月を無視するかのように斜面に堂々座り込んでいた。通称横平、焼き畑農業や林業が行われていた所らしい。

 見上げていると今昔の境目がすーっと消えていく。たちまち汗が引き、セミの音声に心までも透き通るような不思議な感覚だ。

 山が個人の名誉や商売に利用される時代になったが、上人は「山を開放し、皆で登る」ことを目的とした。石仏はその心の象徴であり、惜しまず協力した地元の熱意の証しでもある。

 現在は東の新穂高温泉側しか登山道はない。5~7体目がまだ見つからないため、このルート後半は今も謎のままだ。飛騨山中、時空のミステリー。和合さんが草を分け、かすかに残る踏み跡を発見した。さすがアウトドアの達人である。

 その先5体目への旧道も必死に探したが、廃道となった林道も谷へ切れ落ちて、ロマンは夏草の中に消えていた。笹島の林道入り口から約12キロ、冒険はそこで終わった。

 地元では「最近は米国からも研究者が訪ねてくる。登山の専門家にも参加してもらい、ぜひルートを再現したい」(川上さん)。



蔵に自筆の再興記、縁側で同じ景色見た

再興登山道の起点、上宝笹島の観音堂
再興登山道の起点、上宝笹島の観音堂

 帰路、上人が修行した岩井戸集落に、先祖が名主を務めた大宅家を訪ねた。

 大宅昭平さん(64)「上人は壁岩、通称杓子(しゃくし)の岩屋で90日間、1日1回練ったそば粉を口にするだけの木食無言の行をしたという。当家もお世話をしたが、上人も修行の合間に畑仕事を手伝った。村民と一体の人だった」。

 実像は小説と異なる部分もあるが、上人を描くために故新田次郎氏が訪ねてきたこともあるそうだ。

 程近い高原山本覚寺には、山から下ろした石仏のうち2体が安置されていた。

 23世石井玄太住職(45)「昔は大ケ岳などと呼ばれていたが、当時の住職椿宗(ちんじゅう)和尚の助言で釈迦(しゃか)の迦と、信奉していた滋賀の多賀大社から迦多賀嶽と名付け、それが後年カサガタケになった。蔵には自筆の再興記なども保存しており、信念と人柄がうかがえる」。

 寺の真正面、梅雨空のはるかに頂が煙っていた。上人もこの同じ縁側に座り、同じ景色を見たと思うと疲れも吹き飛んだ。

 山高故不貴、また、名誉や自慢のためでなく。

 よし。これで講釈派の年配登山者にも対抗できる、自慢ができる。生臭おやじに反省はない。小躍りして帰京した。



上人の修行した岩井戸の「杓子の岩屋」。高さ50メートルはある岩壁だ
上人の修行した岩井戸の「杓子の岩屋」。高さ50メートルはある岩壁だ

 ◇槍ケ岳では 1892年に登頂したウエストンが有名だが、78年のガウランド(ともにイギリス)が外国人で初登。播隆上人はさらに早く1826年に試登、28年に登頂成功。誰でも登れるようにと鎖や縄を難所に設置した。



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プロフィル
後藤新弥(ごとう・しんや) 日刊スポーツ編集委員、60歳。ICU卒。記者時代は海外スポーツなどを担当。CS放送・朝日ニュースターでは「日刊ワイド・後藤新弥のスポーツ・online」(土曜深夜1時5分から1時間。日曜日の朝7時5分から再放送)なども。
 本紙連載コラム「DAYS’」でミズノ・スポーツライター賞受賞。趣味はシー・カヤック、100メートル走など。なお、次ページにプロフィル詳細を掲載しました。
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