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後藤新弥の「スポーツ&アドベンチャー」

2007年09月18日更新

二十六夜山で月待ち講

あぁ酔いの月

♪金色に輝く こんなはじける夏が欲しかった!♪ 前から2人目、子どもたちと太平洋をこいだ(撮影遠藤大哉=NPOバディ冒険団)
月は出た、「かぐや」はまだか。秋の夜長だ、おやじ至福のひとときである

 山梨県上野原に二十六夜山(にじゅうろくやさん)という耳慣れない名前の山がある。昔、養蚕が盛んだった時代にこの山頂で月待ち講をしたらしい。満月ではなく二十六夜に、というのが何ともロマンだ。無理を承知の見え張り登山に走りがちなおやじだが、たまにはのんびりと月を見ながら酒を飲むような山歩きもしたかった。8日の夕方から登った。月を待ったが、なかなか出ない。酔っぱらってしまった。



「廿六夜」石碑

♪金色に輝く こんなはじける夏が欲しかった!♪ 前から2人目、子どもたちと太平洋をこいだ(撮影遠藤大哉=NPOバディ冒険団)
山頂近く、ぬくもりを感じさせる二十六夜塔

 上野原から秋山川に沿った旧鎌倉裏街道を西に進むと、尾崎の集落がある。左に入るとじきに山道になる。見やすい道標が整備されていた。へへ、今回こそ楽ができる、ほろ酔い登山だとほくそ笑んだ。

 そうはいかなかった。

 台風直撃の名残でふもと近くの沢筋が荒れている。倒木が道をふさいでいる。針葉樹なら幹は1本だ、またげばいい。枝葉の広がった広葉樹だとそうはいかない。後日の登山者の便宜にとばさばさどけているうちに「あれ、道はどこ?」。本来のルートを見失った。山でベテラン顔をするとろくなことがない。

 もっとも苦戦は最初だけだった。尾根筋に上がると道の枝葉が切り払われて、快適なハイキングを小1時間。開けた場所に飛び出したら「廿六夜」と彫り込まれた石碑に出くわした。目標発見。台座から外れていたが形も円くて、厳かというより何やら楽しげだ。暖かみがある。心が緩んだ。

 十五夜、二十三夜など、特定の夜に人々が寄り集まる月待ち行事が昔は各地で盛んだった。登る前、旧秋山村時代の村史を編さんした元村役場勤務、井上明治さん(77)に聞いてきた。


養蚕に合わせ

左側にアマと呼ばれる浮き子が付いている
毎年旧歴の3月と9月の26日を祭り日とする、と書かれた明治22年の趣意書コピー

 井上さん「ここはまさに陸の孤島で養蚕が主要な産業でした。主に女性の仕事で、男は山腹の桑畑から牛や馬で葉を運ぶだけ。毎年2回、無事にいい繭が取れるように祈願したのが二十六夜の月待ち講で、頂上近くの月待ち塔は明治22年(1889)に建てたもの。旧名高ケ嶺(たかがね)山が、講にちなんで今の名前になったようです」。

 建立時の趣意書原文コピーも見せていただいた。

 二十六夜講は正月と7月に行われたという言い伝えも見掛けるが、ここでは「但し祭日、旧三月九月廿六日ト定ム」とある。今ならおおよそ4月と10月、新緑と紅葉の美しい季節だ。

 井上さんも「養蚕は4月に始まり、10月に終わった。それに合わせた行事だったと思われます。きっと女性の慰労を兼ねて楽しく飲食したのでしょう」。

 養蚕業の衰退と同時に月待ちも時代の闇に消えていった。けれど円い石碑はロマンを今に語り伝える。

 昔をしのんでここで月を待とう。その横にどっかと座り込んだ。



初孫ちびちび

 ところが。意外なほど明るい夜空に星は広がるが、月など一向に出てこない。二十六夜の月におやじもあやかろうと、計算は苦手なのに釣り用の潮時表で「月齢26」を必死に探し当て、わざわざこの日にやってきたのだ。西の空をしきりに見上げたら首筋がつった。

 ばかだった。西の空は三日月だ。中学の理科の時間は大半寝ていたから罰が当たったのだ。二十六夜は夜半過ぎ、東の空である。

 気が付くまでに2時間かかった。木の葉が茂っていて、ここで月が見えるとした夜明け近くだ。薄れてしまう可能性がある。だめだ、こりゃ。退散を決めた。知人から頂いた「初孫」という酒を山用の食器でちびちび飲んでいた。足元がおぼつかない。星明かりで危うく下山した。月の出を見やすい場所を探すのにかなりの時間と知恵を要した。

 9月9日朝3時、ようやく月が出た。試算では月齢26・8前後。旧暦の日付と月齢は若干ずれるそうだがその辺はご容赦願おう、これがおやじの二十六夜月!



「無情野」伝説

 月待ちの間、井上さんから聞いた土地の話を思い出していた。登山口にも近い無生野(むしょうの)集落に伝わる伝説だ。

 <後醍醐天皇の第一皇子護良(もりなが)親王は鎌倉倒幕に活躍したが足利尊氏と反目し、建武2年(1335)鎌倉で殺された。すでに身ごもっていた侍女の雛鶴(ひなづる)姫は数人の供とともにその首を抱え、この裏街道を忍ぶように逃げてきた。途中の原集落で産気づき、屏風岩の陰で皇子を産んだ。その後無生野にまでたどり着いたが食べ物もなく、今の雛鶴峠を越えることなく、母子ともこの地に骨をうずめた>

 英雄でありながらも讒訴(ざんそ)によって父の怒りを買ったあたり、親王の悲運は義経にも似ている。

 土地の人々は雛鶴姫の悲運をしのび、人々はここを無情野と呼んだそうだ。

 「無常野」と記す例もあるがと聞くと「当地では情けと書きました。後のとがめを恐れ、集落の人たちが何一つ助けてやることができなかったからです」。

 「村の人々こそ、本当は身を切られるほどつらかったことでしょう。その哀れさを伝える無情、なのですね。人の心の優しさを逆に強く感じるお話です」。「そう読んでくれますか。それはありがとう」。



月もまた昇る

9月9日午前3時27分、月齢26の月が出た。デジカメでストロボ撮影! 細いが力強さを感じる月だった
9月9日午前3時27分、月齢26の月が出た。デジカメでストロボ撮影! 細いが力強さを感じる月だった

 月は折れそうなほど細かった。細いけれど、人の心の強さを感じるような月だった。いっとき欠けても、虐げられても。この月はまた昇るのだ。満ちるのだ。酔いが回ったおやじの耳に、やがて笑い声や手拍子までが聞こえ始めた。

 こよいは何といい酒か。

 ◆メモ 二十六夜山は関東に3つある。山梨県都留市の1297メートルが有名で、江戸時代、嘉永年間の月待ち塔が残されている。静岡県の石廊崎に近い南伊豆町にも311メートルがある。国土地理院の地図検索では「にじゅうろくややま」の表記。なお無生野の大念仏は重要無形民族文化財に指定されている。



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プロフィル
後藤新弥(ごとう・しんや) 日刊スポーツ編集委員、60歳。ICU卒。記者時代は海外スポーツなどを担当。CS放送・朝日ニュースターでは「日刊ワイド・後藤新弥のスポーツ・online」(土曜深夜1時5分から1時間。日曜日の朝7時5分から再放送)なども。
 本紙連載コラム「DAYS’」でミズノ・スポーツライター賞受賞。趣味はシー・カヤック、100メートル走など。なお、次ページにプロフィル詳細を掲載しました。
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