いとうあさこの仕事の流儀、手を抜かず前向く理由

「王道のトークラジオバラエティを目指します」と意欲満々のいとうあさこ(撮影・酒井清司)

 バラエティー番組で見せる体を張った芸や、歯に衣(きぬ)着せぬ発言が人気だ。お笑い芸人いとうあさこ(47)。ブレークしたのは10年前。それまでは山あり谷ありの人生だった。芸人としての原点と将来のビジョンを聞いた。

 

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■宇宙物理に興味を持ったお嬢様

 

 意外かも知れないが、お嬢様に囲まれて育った。小学校から高校まで、有名女子校の雙葉(ふたば)に通った。

 「わりと雙葉って、とてつもない大金持ちや教科書に出てくる財閥の子もいるんですけど、いわゆるサラリーマン家庭が一番多いので、平和ですよね。ルールも厳しくないし。みんな、透明の下敷きに明星、平凡の切り抜きを挟んだり、マッチさんのカンペンにシートのマグネットにシールを貼って、カンペンの裏に貼るとか流行ってました。白の油性ペンにカンペンのポエム書いたりして(笑い)。わりと自由でしたね。(校則なども)うるさくなかったですね。隠した記憶もないので。体育の授業で少年隊さんのストライプブルーという曲を踊ったのは覚えています。本人に任せられるという、節度がある中にいました」

 クラスでは場を盛り上げるムードメーカーだった。

 「率先していくタイプではなかったですが、高3の運動会の時に、最後だから思い出に残したいなと思って、盛り上げようとして、学年カラーだった紫色の模造紙を大量に買って丸めてメガホンを作ったり、紫の服を作ったりしました」

 大学には進学せず、家出をした。

 「勉強は嫌いではなかったんです。理系が好きで、大学に行くなら宇宙物理かなと思っていたのですが、当時はリケジョ(理系女子)なんて言葉もなく、文系に転向したんです。そしたら、びっくりするくらいできなくて。19歳で家出をしました。ちょっと遅い反抗期ですね。今思うと『悲しい思いさせた』と、ぞっとします。その後、両親とは兄弟がつないでくれて、兄の結婚式に呼ばれたりするうちに、関係は徐々に回復してきていきました。今は、すごい笑ってテレビを見てくれているみたいです」

 

■いかりや長介、伊東四朗に憧れて

 

 アルバイト生活を送りながら、夜はミュージカルの専門学校に通った。

 「子供の頃から芸能界に憧れがありました。いかりや長介さんや伊東四朗さんのように喜劇も悲劇もこなせる方がすごいなと感じていました。そういうこともあって、演劇をやりたかったのですが、演劇は筆記の授業があったので、実技だけのミュージカル科に入りました。夜学でしたし、時間があまりないので実技だけで良いと思って入ったんです。ミュージカル科も面白いと思ったのですけど、20歳過ぎから始めた人が入れる世界じゃなかったですね」

 厳しさを味わったが、その経験がその後の芸人として活躍する原点になった。舞台「アルプスの少女ハイジ」のオーディションに合格してステージに立った。

 「ハイジをいじめるロッテンマイヤー役で、アドリブを任された。いじめ方をちょっと遊んでみたら、子供にすごくウケて。『バカバカ』とか言われながら(笑い)。それがすごく気持ち良くて。それが私の原点になったと思います。そこで、喜劇をやりたかったんだと思い出して、ちょっとずつ喜劇コントのようなお芝居しようかなと思い始めたんです」

■泣かず飛ばすの時代、とにかくお金なかった

 

 97年に専門学校の同期生だった女性と、お笑いコンビ「ネギねこ調査隊」を結成したが、鳴かず飛ばずで03年に解散した。

 「お笑い業界に入ったらすぐにうれると思ったんです。名が売れたら、もしかしたら商業演劇とかに呼ばれて舞台にも出られるんじゃないかと思っていたんです。でも、そんな甘い世界じゃないのは初日に分かって。オーディションに行ったら何百人もいて。見たことない芸人さんなんですけど、メチャ面白いんです。そこで、私は爪の先っぽだけの世界を見ていたんだなって。でも、こんなに面白い人がいっぱいいて、すごい良い世界だなって。ショックを受けたというか、面白くてすごい世界だなと思ったんです。そこで、いかりやさんと伊東さんのすごさにも気が付きました」

 解散後、ピン芸人として活動を続けたが、生活は苦しかった。

 「やめ方が分からなかったんです。やめてどうするんだっていうのもありました。実はライブではウケていたんです。ライブとテレビは違うんだなって思っていました。当時はアルバイトの心配だけをしていました。本当に大変だったのは、20代の舞台やっている時代でしたね。下っ端でお金もらえないのに、練習は出ないといけないから、バイトもできずとにかくお金がなかったです。お米の一番安い大袋を買ってきて、1日3合炊いて、食べるのですけど、白ご飯だけじゃつまらないから89円くらいで売っているミートソース缶を買ってきて。ご飯にスプーン1杯分かけて食べたりしていました。1週間に1回100円玉握りしめてアジフライを買って食べるとかでした」

 

■ターニングポイントは浅倉南ちゃん

 

 転機は38歳になっていた08年夏に訪れた。お笑い番組「爆笑レッドカーペット」のイベントに出演した。人気アニメ「タッチ」のヒロイン浅倉南を題材にしたネタが爆笑を引き起こした。実はそれまでも、番組オーディションなどで披露していたが、オーディションは落ちていた。

 「別のネタをやるはずだったんですが『南ちゃんやっていいですか』と言ってやったら爆発的にウケて。そしたらプロデューサーさんが『ごめん。ウケるんだね』って。それで『テレビに出てみようか』ってなって。あのイベントに出てなかったら、こうはならなかったですね。やっていることは変わってないんですけど、そこから流れが変わった感じです」

 日本テレビ系の「世界の果てまでイッテQ!」や「ヒルナンデス!」といった人気番組では、自虐ネタも織り交ぜ、ムチャぶりにも体を張って応じ、笑いを取りにいく。そうした姿が視聴者にも支持され、テレビの仕事も増えた。

 「自分は普通の人間だと思っていたのでリアクションの仕事が来ると思っていませんでした。だから『イッテQ』の仕事が来るとは思ってもいませんでした。こんなにウケるとも思いませんでした。だから今は(自分の人生が)全然分からないし、人が決めるものだなって思い、流れに乗って生きています」

 

■自己評価は「感じ悪い」厳しい上司?

 

 売れっ子になり多忙な日々が続く。

 「お休みは、お正月に1週間くらいいただいて、1年の鋭気をやしなっている感じです」

 忙しくなってもやめられないことがある。

 「異常なテレビっ子なんです。移動中も音楽聞くし、テレビもつけっぱなしで寝るくらいなんで。テレビのハードディスクは常にパンパンです。ドラマも歌番組も撮り倒すんで。ロケで何日もいないと、何十本も録画されていて。でも、全部、見るんです。ずっと見てるんですよ。おかしいくらい(笑い)」

 理想の上司(明治安田生命調べ)では今年、女性部門で7位にランクインした。

 「感じ悪いと思いますよ(笑い)。厳しくて。自分の気力が強いので、我慢できる範囲が大きいので、人の痛みが分からないんです」

 新たな仕事も始まる。文化放送「ラジオのあさこ」(土曜午前7時)が4月7日からスタートする。

 「マッチさんが出演していたラジオ番組も、10年以上前からペーペーだった私をリポーターとして使ってくれたのも文化放送さん。ありがたい思いと不思議な感じ。音楽が好きなので、それをしゃべれる場があるのはうれしい」

 

■1200万円貢いだ、借金取りがやってきた

 

 私生活でもさまざまな恋愛を経験した。20代の頃、アルバイトで稼いだ1200万円以上を貢いだこともあった。

 「借金のある人で、当時、プレハブみたいな家に住んでいたのですけど、借金取りの怖い人がいっぱいきました。言われてたらお金返していた感じです。当時は、借金取りの来ない静かな生活をしたいと思って馬車馬のように働いてました。30代で付き合った人は割り勘だったので、豊かな時間をすごしましたね(笑い)。結婚ですか? 諦めたわけではないけど、今、相手がいない。凪(なぎ)ですね」

 流れに乗って生きるのが「いとうあさこ流」の処世術。行き着く先について、どんなイメージを抱いているのか。

 「好奇心がなくなったら死んじゃうと思うので、そういう感覚が残っていればいいかなと思います」

(聞き手=上岡豊)

 

■大竹まことの目 手を抜かない!そんじょそこらの女じゃない

 

 文化放送「大竹まことゴールデンラジオ!」で共演する大竹まこと(68) あさこはすごいよ。ここ数年で理想の上司の上位に入ったんだろ。ちょっと女を捨てているところあって、おばさんってキャラクターで。そのわりには、恋多き乙女みたいなところもあって。ダンスしたり、外国行って体を張ったりして骨折したり、そんじょそこらの女じゃないよね。全方位で出るところは出て、抑えるところは抑える。でも、どの番組も手を抜かないのが気に入られているんじゃないかな。

 

 ◆いとうあさこ 本名伊藤麻子。1970年(昭45)6月10日、東京都生まれ。01年日本テレビ系「進ぬ! 電波少年」の企画「電波少年的15少女漂流記」に参加。ウクレレを弾きながらの自虐的漫談やアニメ「タッチ」の浅倉南になりきった自虐ネタなどで人気を得た。日本テレビ系「ヒルナンデス!」「世界の果てまでイッテQ!」や文化放送「大竹まことゴールデンラジオ!」に出演中。162センチ。血液型AB。