<日刊スポーツ:2002年6月10日付>
プレーバック日刊スポーツ! 過去の6月10日付紙面を振り返ります。2002年の1面(東京版)はサッカー日本のW杯初勝利でした。
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<W杯:日本1-0ロシア>◇1次リーグH組◇2002年6月9日◇横浜国際
勝った。日本がついにW杯で歴史的な1勝を挙げた。1次リーグH組第2戦のロシア戦。後半6分、ゴール前で抜け出したMF稲本潤一(22)が、GKを見ながら冷静に右足でシュート。初戦のベルギー戦に続くスーパーボランチのゴールが1-0の初勝利を呼んだ。これで日本は勝ち点4とし、ロシアを抜いて首位に立ち、目標の決勝トーナメント進出へ大きく前進した。14日には大阪でチュニジアと最終戦を戦う。
2分のロスタイムが、主審の笛で終わりを告げた。このときを待っていた。横浜国際の6万6108人が、日本全国の人々が、日本サッカー界の歴史に新たな1ページをしるすこの瞬間を待っていた。中田英が、稲本が、小野が、日の丸戦士がだれかれ構わず抱き合った。叫んだ。笑った。日本が、W杯の舞台で確かに1勝を刻み込んだ。1次リーグ突破へ、大きく前進する勝ち点「3」だ。
日本中を興奮させたのは、またも稲本だった。後半6分、ゴール前最前線にオーバーラップしていた金髪のボランチがいた。左サイド、DF中田浩から送られたグラウンダーのクロス。FW柳沢が、ダイレクトで出した絶好のスルーパスをフリーの稲本が左足でワントラップ。GKのポジションを冷静に見ながら、浮かし気味に右足で放ったシュートが、ゴールに吸い込まれた。
4日の初戦ベルギー戦の2点目をたたき込んだ背番号「5」が、またもデッカイ仕事をやってのけた。「(柳沢と)いいコンビネーションだった。あとは入れるだけだった浮いたときは、一瞬外れるかと思ったけど…」。はちきれんばかりの笑顔だった。もちろん、ゴールだけで勝利に貢献したわけじゃない。「しっかりした守備から攻撃に移れた。ディフェンスの勝利です」。試合開始からロシアの中盤を鋭い出足で封じ込んだ。「白い巨人」の生命線のショートパスに対し、稲本を中心とした中盤が吸い付くようにカットを狙っていった。ボールのあるところに必ず稲本がいた。
あの人が、スタジアムにいた。海外移籍への道を弾き開いてくれた恩人、アーセナルのベンゲル監督だ。夢をかなえた反面、サッカー人生で初めての挫折も味わった。リーグ戦出場はゼロ。「正直、もっと出られると思った」と充実感より、悔しさだけが残った。チームがリーグVを決め、ホームでの最終戦後に各選手の名前がアナウンスされたときだ。稲本は「(試合に出ていないので)ファンの反応がどんなんか、恥ずかしかった」と告白した。
W杯の目標の1つは、世界へのアピールだった。だが、まず最初にベンゲル監督に成長した姿を見せたかった。アーセナルで試合に出られなくてハングリーになったかと問われると、稲本は「That’s right(その通り)」と、いたずらっぽく英語で答えた。2戦連発で、世界の移籍マーケットに痛烈なインパクトを与えたのは確かだ。
日本代表の強化を見据えて93年にJリーグが発足した。同時にできた下部組織で稲本は力をつけてきた。G大阪ジュニアユースからユースへ。大阪・堺市の自宅から電車、バスを2時間も乗り継ぎ練習に通った。トップに昇格してJデビューしたのは当時の最年少記録の17歳6カ月。日本代表と同時進行で成長してきた男が、海外へ渡ってさらに大きくなり、W杯で結果を出した。
「初勝利で歴史が変わったのは確か。でも、次に向けて頑張りたい」。その視線はもう、14日のチュニジア戦に向けられている。歴史的勝ち点1、そして初勝利。稲本が引っ張る日本が、決勝トーナメント進出という次のハードルも一気に飛び越える。
◆劣等感ない世代
稲本が歴史的な決勝点を挙げたのは偶然ではない。育ったのはG大阪ユース。中学、高校での部活を経ずに、高校生の時にはJリーグでプレーしていた。Jリーグ発足と同時にできた下部組織で育った。それまでの学校体育からクラブへの脱皮を目指したJリーグが生んだのが稲本だ。
95年のU-17世界選手権に出場し、99年ワールドユースでは準優勝した。日本サッカーが長い間抱き続けてきた世界に対する劣等感はない。互角に戦い、勝ってきた。日本協会の目指した「ユース年代の育成」。それが結実したのが稲本ら「黄金世代」だった。
「どうせ行くならビッグクラブがいい」とアーセナルに移籍。試合に出場できないかもしれないことを恐れずに挑戦した。少し前なら、W杯とかロシアとか聞いただけで、身構えたものだ。しかし、稲本らの世代は違う。日本サッカーの改革が生んだ新しい世代。新しい歴史は、彼らによって作られた。
※記録と表記は当時のもの