グラウンド造成に牛、名前の理由、ドーム構想…聖地の歩み/黎明期の高校野球〈10〉
この球場でなければ、高校野球が愛され続けることはなかったかもしれません。黎明(れいめい)期からの歩みをたどる連載、最終回は甲子園の歴史です。(2015年6月10日掲載。所属、年齢などは当時)
高校野球
高校野球の聖地で、阪神タイガースの本拠地でもある甲子園球場(西宮市甲子園町)は、1924年(大13)8月1日に産声を上げた。同年が十干の頭にあたる「甲(きのえ)」と十二支の最初の「子(ね)」が60年ぶりに重なる年で縁起がいいと言われることから「甲子園」と命名された。甲子園大運動場として誕生し、数々のドラマを生んできた球場の歴史をたどった。
★1824年(大13)8月1日
球場建設の発案者で、阪神電鉄の実質的な社長だった専務・三崎省三が、開場式であいさつに立った。
「この甲子園大運動場は日本一、東洋一でございます…」
近くの武庫川は〝暴れ川〟で、支流の枝川、分流の申川は洪水を繰り返していた。枝川、申川は最終的に廃川となり、阪神電鉄はその広大な敷地に興味を示した。
22年10月30日、兵庫県と払い下げの契約書に調印、総面積22万4000坪(約73万9200平方メートル)を410万円で買収した。
一方で、豊中球場で行われていた全国中等学校優勝大会は、第3回大会から阪神沿線の鳴尾グラウンドで開催されるようになっていたが、観客を収容できない状況に陥っていた。
そこで三崎は、米国に阪神電鉄車両課長・丸山繁を派遣。朝日新聞ニューヨーク支局勤務の小西作太郎の紹介で、ジャイアンツのポロ・グラウンド(1889年完成)を視察した。
その設計図を入手した阪神は、入社したてで京大工学部出身の技師・野田誠三に設計図を描かせた。
24年3月16日の起工から、わずか4カ月半。「甲子園」が完成。大鉄傘に内野スタンドは鉄筋コンクリート50段の座席、現在のアルプススタンドは土盛りの上に木造スタンド20段、外野は土盛りだった。
★大林組の大仕事 4カ月半で完成
設計・施工を請け負った大林組の大林剛郎代表取締役会長は「この規模の工事を4カ月半で完成させたのは、現代の技術をもってしても難しいチャレンジだったと思います。父親で3代目社長の芳郎に聞いた話では、グラウンドの造成に牛を使ったり、夜間は電車の架線から電力を引っ張って裸電球に明かりをともし、徹夜作業を続けた大突貫工事だったとのことでした」という。
かつては「全日本スキージャンプ大会」、六代目尾上菊五郎一座「野外歌舞伎」など、娯楽の舞台でもあった。
戦後、米軍に接収された時期もあったが、解除された47年に設置されたのがラッキーゾーンだった。
そんな時代の話がある。球場建設の年に生まれた91歳の後藤次男(元阪神監督)は「巨人戦の開門と同時にファンがなだれ込んで、米兵がピストルを撃って沈静化させた」と思い出をたどった。

福井県出身。大阪体育大学体育学部から日刊スポーツ大阪本社に入社。
プロ野球をはじめ、野茂英雄の米大移籍から現地に派遣されたメジャーリーグ取材の草分け的存在。WBC、五輪など国際大会、球界再編の取材にも関わった。
一方で、ミニストップ社と「大人のスイーツ」、オリジン社と「不規則な記者が、規則正しい弁当を作る」をコンセプトに共同開発した商品を全国発売した異色派。各界に人脈、ネットワークが豊富で、テレビ、ラジオ出演も多数。趣味は歌舞伎など舞台鑑賞。