【ホークス週間〈5〉名門卒の里程標】甲斐に挑んで培った人生観―育成出身・堀内汰門

ホークス特集。最終回は、捕手として6年間プレーした堀内汰門氏(25)が挑戦しているセカンドキャリアにフォーカスします。キャンプ地に近い宮崎県都城市で、看護師になるため猛勉強中。並行して週2回、子どもたちに野球塾も開催しています。扇の要としてチームを支えてきた野球人生から、医療現場で人を支える第2の人生へ。等身大の歩みを書き下ろしで。(本文敬称略)

プロ野球

◆堀内汰門(ほりうち・たもん)1996年(平8)9月16日生まれ。埼玉県出身。中学は坂戸ボーイズでプレー。通信制の高校に入り野球を一時離れていたが、1年9月に山村国際に編入し野球部入部。3年夏は花咲徳栄を破るなど、同校初の16強入りに貢献。14年育成ドラフト4位で入団。ドラフト同期は支配下で松本、栗原、笠谷ら。育成は堀内のほかに7人いたが支配下登録はされなかった。4年目の18年3月27日に支配下契約し背番号も「131」から「39」へ。1軍出場なく20年は再び育成契約し背番号は「144」。21年は社会人JFE西日本でプレーした。現役時代は175センチ、76キロ。右投げ右打ち。

狭いチャンスをつかみ支配下登録=2018年3月27日

狭いチャンスをつかみ支配下登録=2018年3月27日

★25歳 春から看護学生

堀内は、今年4月から宮崎県都城市の看護学校に通っている。准看護師まで2年、正看護師になるには5年学ぶ必要がある。国家試験もクリアしなければならない。

学校に通う3分の1は男性だ。「すごく心強いですね」。同じ夢を持つ仲間と、平日昼から夕方まで学ぶ。プロ野球選手を経験し、看護師の道を進むのは異例だろう。「もともと、人の役に立ちたいという思いは、すごく強くて。患者さんに寄り添う看護師になりたい」。実現まで長い道のりだが、決意は固い。

整形外科で看護師の助手として働いていることも、夢を膨らませる要因になった。患者のおむつ交換や入浴の手伝い、掃除などが仕事。平日の午前中と、週3回は学校後に2時間勤務している。

患者と実際に触れ合うことで、現場の厳しさ、大変さを知る。その経験を重ねるごとに、看護師への思いは強まっている。高校までは勉強よりも野球優先の日々。「野球だけやっておけば、といった考えだった。今は『看護師になりたい』と思って通っている。勉強ひとつひとつが新しいことばかりなので。吸収するものがたくさんあって楽しいですね」と、25歳で初めて勉強する喜びを感じている。

★4年目 キャンプ1軍モノに

14年育成ドラフト4位で、山村国際高からソフトバンクに入団。1年目の15年にいきなり右鎖骨を骨折した。「入院とかリハビリとか、きつかったんですけど。看護師さんが優しく接してくれて、気持ちとか楽になりました」。プロ生活の中で、第2の人生の原風景があった。

捕手として6年間プレー。3軍制を敷き、育成が毎年20人以上いる中で支配下契約を勝ち取れる選手は数人しかいない。

堀内が育成4年目の18年、チャンスは突然訪れた。この年も育成は25人でスタートした。2月のキャンプで高谷と栗原が故障。緊急事態の中、過去3年間で2軍戦出場3試合の3軍捕手が、1軍に抜てきされた。「ここしかないと一気に目の色を変えた。やっぱり野球人生の中で、一番の思い出の瞬間ですね」。

支配下登録直後の練習。甲斐と=2018年3月27日

支配下登録直後の練習。甲斐と=2018年3月27日

オープン戦では右手親指を脱臼したが、弱音を吐くことはなかった。2度スタメンマスクもかぶり、8試合に出場。4打数無安打も最後まで残り、開幕前に支配下登録され、背番号「39」をつかんだ。

★ノムさんの手

1軍は想像以上に華やかだった。満員のヤフオクドーム(現ペイペイドーム)の大歓声は、今でも耳に残る。

18年3月31日オリックス戦。ホークス球団創立80周年を記念した「レジェンドデー」で、南海OBの江本孟紀のセレモニアルピッチの捕手役を務めた。

背後には、審判役の野村克也がいた。「僕の背中に手を当ててくれて。絶対に球を後ろにやっちゃいけないって、ものすごく緊張しました。でも幸せでしたね。普通じゃ味わえない」。KATーTUN亀梨和也の始球式を受け握手したことも。「思った以上にピュッと来て、さすがだなと思いました」と、今でもちょっぴり自慢のシーンだ。

審判を務める野村克也氏の前でキャッチ。背中に手を添えてくれた思い出=2018年3月31日

審判を務める野村克也氏の前でキャッチ。背中に手を添えてくれた思い出=2018年3月31日

当時の1軍は、甲斐と捕手2人だったこともあり、公式戦で出番はなかった。4月15日ロッテ戦後に降格。その後、1軍に戻ることはなく、19年オフに再び育成契約。20年オフに戦力外通告を受けた。

「1軍に行って『オレだったらできる』というような気持ちは、多少はあった。2軍、3軍って落ちた時に、モチベーションが上がらなくて。『何でオレが』という、いらない自分がいて。それをどかすのが自分の中で一番時間がかかりました」

自信とともに過信も生まれた。3軍バッテリーコーチの加藤領健、2軍バッテリーコーチの的山哲也から「このままではダメだ」と強く怒られても、背番号が再び3桁になるまで、変われなかった。

福岡県出身。西南大卒。1998年西部本社入社。
広告部、報道部では九州のレジャー面や高校野球などを担当。
レイアウト部門の整理部に11年所属したあと、2012年から37歳で初のプロ野球記者。ソフトバンクを8シーズン担当し、5度日本一(2018、2019年は2位からの下克上)を経験。
2020年は西日本のアマ野球担当もコロナ禍で春、夏とも甲子園大会中止。近大時代に取材した佐藤輝とともに2021年から阪神担当。
趣味は休日の野球観戦。試合だけでなくマスコット、チア、売り子、応援、球場グルメ、グッズなど幅広くプロ野球を堪能。独身。