【日野龍樹からビッグ3同期へ〈上〉】羽生結弦、田中刑事に「少しでも近づきたい」と

羽生結弦選手には、同期がいます。日野龍樹さんはかつて、羽生選手、田中刑事選手とともに同世代を引っ張ってきました。3人の中で最初に競技から退いた日野さんの道のり、2人への思いを語ってくれました。上下編の上。※写真は同期3人で記念撮影した16年NHK杯、左から日野、羽生、田中(2021年12月7日掲載 所属、年齢など当時)

フィギュア

「こんなもんですよ、やめる時って」

突然の引退表明だった。「最後と決めて臨んでいたので。どうなってもいいって気持ちと、へたな演技はできないなって気持ちがありましたね。やっぱり同期にすごいやつらがいますから」

20年12月26日、フィギュアスケート全日本選手権(長野)。男子フリーの演技を終えた直後の取材エリアで、日野龍樹(26)が唐突に打ち明けた。

同期、とは同じ会場で戦った羽生結弦(27=ANA)と田中刑事(27=国際学園)のことだ。1994年度生まれ。ノービス(主に小学生)年代では日野と羽生が日本一を2度ずつ分け合い、中学から高校にかけての全日本ジュニア選手権では3人全員に優勝経験がある。黄金世代のビッグ3だった。

20年全日本選手権 男子フリーで演技する日野龍樹

20年全日本選手権 男子フリーで演技する日野龍樹

◆日野龍樹(ひの・りゅうじゅ)1995年(平7)2月12日、東京都調布市生まれ。名前の由来はインド仏教の僧「龍樹」から。「フョードル」のミドルネームを持ち「フェイ」の愛称で呼ばれる。01年にスケートを始め、高田馬場シチズンプラザ-明治神宮外苑FSC-武蔵野学院中-中京大中京高-中京大(スポーツ科学部)。合計の自己ベストは18年フィンランディア杯の205・15点。09年から12年連続で出場した全日本の最終戦はSP、フリー、総合すべて11位で引退。女子の同期は村上佳菜子や細田采花ら。173センチ、65キロ。血液型AB。

高校、大学卒業を機に大半の選手が氷から離れる世界で、25歳を超えてもなお3人は競技を続けていた。ほかの同期は指導者に、振付師に、会社員に、それぞれ新たな道を歩んでいる。日野も十分に息は長いが「最初に」3人の中でスケート靴を脱ぐことになった。表情は柔らかい。

「ショート(プログラム=SP)が終わってから、フリー当日の朝にかけて(引退を)決めました。こんなもんですよ、やめる時って。来年も続ける体力はないですし、大会の1週間前から体重も減っちゃって。来年もこんな気持ちになるのなら…絶対ここでやめたほうがいいなって(笑い)」

スケート生活は、ちょうど20年。節目に第一線から退くことを成瀬葉里子、川梅みほの両コーチらに伝えた後、記者団への報告をもって12年連続12回目の全日本選手権に別れを告げた。

9歳、野辺山合宿で出会う

競技を始めたのは6歳の時だった。ロシア人の父と日本人の母の間に生を受け、高田馬場でリンクに立った。9歳の時、日本スケート連盟の長野・野辺山合宿(全国有望新人発掘合宿)で羽生、田中らと出会う。練習では跳べる3回転ジャンプの数で勝負し、大会になれば3人が全国大会の表彰台を独占して頂点の座を奪い合ってきた。

東京出身だが、スケート歴の半分以上の11年間を名古屋で過ごした。転機は中学3年。06年トリノ五輪(オリンピック)女子の金メダリスト荒川静香や、冬季五輪男子2連覇の羽生らを育てた長久保裕コーチを慕い「高校は越境進学したい」と両親に頼み込んだ。

「長久保先生は、もともと仙台にいらっしゃって。その時から教えてもらい、指導の拠点を名古屋に移された後も、僕はチームに入れてもらって合宿等でお世話になっていたんです。ジャンプを教えるのが日本一、いや世界一、上手なコーチ。その先生に毎日、習うことができるチャンスが、愛知に行けばある。逃すわけにいかない。父と母に『行かせてほしい』とお願いしました」

愛知・中京大中京高へ進学し、親元を離れた。祖父が付き添って生活を支えてくれた。

「引退して、今こうやって振り返っても最高の決断だったと言えますね。感謝しかないです」

ナショナルトレーニングセンター(NTC)が現在の大阪・関空アイスアリーナではなく、中京大だった時代。将来を嘱望された日野は、中学1年から週末になると愛知へ通うようになり、長久保コーチの指導を受けていた。縁だった。

「中1でトリプルアクセル(3回転半)の練習を始めたんです。長久保先生に週1回か2回、教わって。そうしたら3年の時には降りられるようになった。確実に上達させてくださるコーチに週末だけでなく毎日、習えるとしたら、こんな最高なことはないでしょう。実家を出ることに迷いはありませんでした」

高校では全日本ジュニア選手権を2連覇。ジュニアグランプリ(GP)ファイナルでは表彰台に立って銅メダルを首から提げた。引退した時、必ず聞かれる「競技人生で最も記憶に残っている試合は?」という問いかけには「待ってくださいね。30秒以内に答えますから」と言った直後、わずか3秒で答えた。

「3位になれたジュニアGPファイナルですね。実は全く万全ではない状態だったので。(シーズン本格開幕の)8月から突っ走ってきて、ジュニアGPシリーズで転戦して、全日本ジュニアで2連覇して。その後なんですけど。身体全体に疲れがたまって、全くジャンプが跳べなくなってしまったんです。ファイナルの6人に2年連続で残れたのは『良かった~』だったんですけど、すぐ『本番で1本も跳べなかったらどうしよう…』となって。半信半疑だったんですけど、結果は…いざ試合になったら、自分も、支えてくれた方々も驚く演技。長久保先生を頼って、やることやってきて良かったなと。体が覚えていてくれました」

スポーツ

木下淳Jun Kinoshita

Nagano

長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメリカンフットボールの甲子園ボウル出場。
2004年入社。文化社会部から東北総局へ赴任し、花巻東高の大谷翔平投手や甲子園3季連続準優勝の光星学院など取材。整理部をへて13年11月からスポーツ部。
サッカー班で仙台、鹿島、東京、浦和や16年リオデジャネイロ五輪、18年W杯ロシア大会の日本代表を担当。
20年1月から五輪班。夏は東京2020大会組織委員会とフェンシング、冬は羽生結弦選手ら北京五輪のフィギュアスケートを取材。
22年4月から悲願の柔道、アメフト担当も。