白井義男さんに聞きたかった 辛口の英雄は井上尚弥や村田諒太をどう論じるのか

四角いリングを愛する者にとって、いや日本人にとって、5月19日は特別な日です。1952年(昭27)のこの日、白井義男さんがプロボクシング世界フライ級王者のダド・マリノ(米国)を破り、日本人初の世界チャンピオンになりました。(2020年5月19日掲載)

ボクシング

〈5・19ボクシングの日 写真で振り返る白井義男の偉業〉

52年5月19日、45000人の観衆で埋まった後楽園球場

52年5月19日、45000人の観衆で埋まった後楽園球場

日本スポーツ史に刻まれた歴史的1日

終戦から7年、サンフランシスコ講和条約による日本独立直後の快挙でした。4万人の大観衆で埋まった後楽園球場は歓喜に包まれ、敗戦に打ちのめされた列島が、熱い活気に沸きました。

まだ物資が不足し、みんなが腹をすかせていました。白井さんは焼け野原でシートの切れ端と革を拾い集めて、1週間かけて自らリングシューズを縫い上げたそうです。「ジムは青空道場。砂糖や缶詰がファイトマネーでした」と後に本人から聞きました。そんな時代に戦勝国米国の王者を打ち破ったのです。当時はフライ級からヘビー級まで全8階級で王者は各階級1人だけ。17階級に細分化されて、団体が乱立した現在とは比較にならないほど、その価値は高いものでした。

デビューから8戦全勝5KO。しかもKOはすべて初回。期待のホープでしたが、44年5月に召集されて海軍航空隊に入隊。戦火が日本全土を覆い、ボクシングの道が閉ざされたのです。その後、厳寒の東北地方での特攻機の整備作業で腰を痛めてしまいます。座骨神経痛でした。終戦翌年の46年12月にカムバックしましたが腰痛で思うように動けません。復帰後の8戦は3勝4敗1分け。「白井はもうダメだろう」。そんな周囲の声は本人の耳にも入ってきたそうです。

転機は48年7月でした。連合国軍総司令部に勤務していたカーン博士の目にとまったのです。スラリとした長身で、スピードのある白井さんの素質を見込んで、指導を買って出たのです。博士の練習方法は当時の日本の常識を逸脱していました。「打たれても打つ」肉弾突進が主流の時代に、防御練習が重視されていたからです。「左ジャブだけの練習が10日間以上も続くこともありました」(白井さん)。「変な外人につかまったもんだ」と、ジム仲間に嘲笑されたといいます。

ところが博士の指導を受けるようになって白井さんは連戦連勝。結果は正直でした。翌49年1月に日本フライ級王座を獲得すると、同12月には日本バンタム級王座も奪取して2階級制覇に成功。2つの王座を同時進行で防衛していきました。そして、51年12月のハワイ遠征で、ノンタイトル戦で世界王者ダド・マリノを7回TKOで撃破したのです。後に白井さんは「あの試合が私のベストファイトでした」と語っています。この勝利で日本人初の世界王座挑戦が実現することになったのです。

1988年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカーなど幅広いスポーツを取材。有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当。
五輪は1992年アルベールビル冬季大会、1996年アトランタ大会を現地取材。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会は統括デスク。
サッカーは現場キャップとして1998年W杯フランス大会、2002年同日韓大会を取材。
東京五輪・パラリンピックでは担当委員。