【ブッチャーの真実〈3〉】馬場を激怒させた電撃移籍 タブー犯した理由はずばり金

日本プロレス史上最も有名な外国人レスラーが、『黒い呪術師』アブドーラ・ザ・ブッチャー(81)だ。希代のヒール(悪党)レスラーでありながら、なぜか絶大な人気を誇った。いったいブッチャーとは何者であったのか。関係者の証言をもとにたどる。第3回は「プロレス界を激震させた大事件」。

プロレス

73年、ジャイアント馬場と戦うブッチャー。右はジョー樋口

73年、ジャイアント馬場と戦うブッチャー。右はジョー樋口

人気絶頂期、映画撮影所に訪ねてきた意外な男

1979年(昭54)の全日本プロレス『チャンピオン・カーニバル』で2度目の優勝を遂げた頃から、アブドーラ・ザ・ブッチャーの人気と知名度は、プロレスの枠を超えて日本全国に広がった。全日本のドル箱スターとして、80年後半から半年間は、すべてのシリーズに参戦した。

当時、全日本は毎週土曜日夜8時から日本テレビ系列で全国中継されていた。ブッチャーは額にざっくりと刻まれた5本の深いキズ跡から血を流し、非情な凶器攻撃で対戦相手を徹底的に痛めつける。そして、まるでゾンビのようにタフだった。そのインパクトはお茶の間のテレビを囲む、プロレスファン以外の大衆も引きつけた。

プロレス専門誌やスポーツ紙のみならず、一般紙や週刊誌からも取材が殺到した。サントリーの清涼飲料水のテレビCMにまで出演。大相撲の高見山と並ぶ、人気タレントのような『時の人』になった。ブッチャー自身も急騰した自らの価値を自覚していた。自伝『幸福な流血』(東邦出版)でこう明かしている。

「このころから観客動員数、マスコミへの露出、視聴率への貢献度などすべての面で、自分の人気がテリー(善玉の人気レスラーのテリー・ファンク)より上であることを実感するようになった」。

事件はこの絶頂期に起きた。81年4月30日に全日本のシリーズに参戦した後、ブッチャーは俳優の真田広之主演の映画『吼えろ鉄拳』(東映)に用心棒役で出演した。同5月、京都・太秦撮影所で行われた最後の収録を終えたブッチャーに、意外な男が訪ねてきた。 同じくこの映画に出演していた、ブッチャー初来日の橋渡しをした全日本のグレート小鹿が、当時の様子を振り返る。

1965年、大分市生まれ。
88年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカー、K-1など幅広いスポーツを取材。アントニオ猪木、マイク・タイソン、有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当する。
五輪は92年アルベールビル冬季大会、96年アトランタ大会を現地取材。08年北京大会、12年ロンドン大会は統括デスク。21年東京大会は五輪・パラリンピック担当委員。サッカーは現場キャップとして98年W杯フランス大会、02年同日韓大会を取材。
23年1月に退社してフリーに。現在は日刊スポーツの契約ライターのほかNPO法人スポーツネットワークジャパン企画編集委員、東日本ボクシング協会の評議員などを務める