【ブッチャーの真実〈2〉】控え室追い出され通路にポツン…人種差別にじっと耐えた

日本プロレス史上最も有名な外国人レスラーが、『黒い呪術師』アブドーラ・ザ・ブッチャー(81)だ。希代のヒール(悪党)レスラーでありながら、なぜか絶大な人気を誇った。いったいブッチャーとは何者であったのか。関係者の証言をもとにたどる。第2回は「人種差別に耐えて」。

プロレス

88年、博多駅前でポーズを決めて写真に納まるブッチャー

88年、博多駅前でポーズを決めて写真に納まるブッチャー

リング上と一転、隅っこに隠れるように

1970年代の全日本プロレスのリングで、アブドーラ・ザ・ブッチャーはトップ外国人レスラーに君臨していた。

非情なフォーク攻撃に、額に深く刻まれた傷からの大流血……まるでゾンビのように相手を襲う狂乱ファイトは、全日本のドル箱になった。彼が出場するだけで、日本全国の会場が満員になった。

全日本の名誉レフェリーの和田京平氏(67)が、当時のブッチャー人気を振り返る。

「どんな小さな田舎でも、ブッチャーだけはみんな知っていた。彼がいないと“なんだブッチャーいねーの”とか“ブッチャーがいなかったら面白くねーよ”とよく言われました」

その知名度と人気は、他の外国人レスラーとは比較にならないほど高かった。リングの上ではどんな相手に対しても、手を緩めず徹底して痛めつけた。

ところが、リングを下りたブッチャーは別人だったという。

東京スポーツの記者だった門馬忠雄氏(84=現プロレス評論家)が、そんな素顔を垣間見ていた。

「あれだけリングの上で暴れ回る男が、他の外国人レスラーと一緒の控室では、1人でポツンと風船玉がしぼんだようになっていた。隅っこに隠れるように。控室に入れずに通路にいたこともあった」

当時、米国にはまだ人種差別の意識が根強く残っていた。

黒人レスラーとの対戦を避ける黒人嫌いの白人レスラーもいた。試合では相まみえても、リングを下りると目に見えない壁があった。特に日本で外国人レスラーのエース格だったブッチャーに対して、一部の白人レスラーには嫉妬もあった。

自分ではどうすることもできない現実に、ブッチャーは抗議することも、反発することもなく、じっと耐えていたという。

就職もできず靴磨きや新聞配達

『黒い呪術師』と呼ばれたブッチャーは、アフリカ・スーダン出身のライオン狩りの名人という触れ込みで、試合ではイスラム教徒の男性が装着するクーフィーヤを頭にかぶって入場した。

しかし、実際はカナダのオンタリオ州ウィンザーでインド人の父と黒人の母との間に、9人兄弟の3番目として生まれた。本名はラリー・ポール・シュリープ。子どものころからひどい差別を受けてきた。自伝『幸福な流血』(東邦出版)でこう明かしている。

「まず私たちきょうだいは、両親が黒人同士ではなく、黒人とインド人の結婚ということで、黒人、そしてインド人の両方から差別されていた。黒人とインド人は互いを見下していたからだ」

1988年入社。ボクシング、プロレス、夏冬五輪、テニス、F1、サッカーなど幅広いスポーツを取材。有森裕子、高橋尚子、岡田武史、フィリップ・トルシエらを番記者として担当。
五輪は1992年アルベールビル冬季大会、1996年アトランタ大会を現地取材。
2008年北京大会、2012年ロンドン大会は統括デスク。
サッカーは現場キャップとして1998年W杯フランス大会、2002年同日韓大会を取材。
東京五輪・パラリンピックでは担当委員。