【復刻版:2008年8月12日の日刊スポーツから】

 北島康介(25=日本コカ・コーラ)が、世界新金メダルに号泣した。男子100メートル平泳ぎ決勝で、ハンセン(米国)の世界記録を0秒22秒更新する58秒91で優勝した。前半で余力を残す作戦が的中。予選から五輪新記録を連発したダーレオーエン(ノルウェー)を後半に逆転。「完ぺき」と自画自賛した泳ぎで、日本人36年ぶりの世界新記録で金メダルを獲得した。同種目の2連覇は史上初で、競泳2大会連続金メダルは日本人76年ぶり。前回アテネ五輪で2冠達成後、故障などで不振が続いたが、原点からの再出発で、再び世界の頂点に立った。

 しばらく言葉が出なかった。レース直後のインタビュー。北島はタオルで顔を覆って、おえつをもらした。涙を流し、声を詰まらせながら「うれしいです…。何も言えない」。もがき、苦しんだ末につかんだ世界新での金メダル。第一声で「チョー、気持ちいい」と叫んだ4年前とは、まるで違った感激がこみ上げてきた。「アテネより気持ちいい」。泣きながら笑った。

 「完ぺきな理想の泳ぎだった」。北島は決勝レースをそう振り返った。前半の50メートルは3番目に折り返した。ストロークは準決勝より3回も少ない16回。水の抵抗をおさえる大きな泳ぎで、体力を温存した。ターン直後に一気に加速してハンセン、ダーレオーエンを抜いた。スピードは最後まで衰えなかった。史上初めて59秒の壁を突破する58秒91の世界新記録。両手でガッツポーズをつくり、何度も絶叫した。

 予選、準決勝で新鋭ダーレオーエンが五輪新記録を連発した。北島はともに2位通過。「驚異的だった。彼の記録がプレッシャーをかけた」。しかし、決勝は自分の泳ぎに集中する冷静さがあった。平井コーチから3つの作戦を伝授された。<1>スタートを思い切り良く跳ぶ<2>ストロークのテンポを落として大きな泳ぎをする<3>ラスト10メートルからはタッチをイメージしてタイミングを計る。そのすべてを完ぺきに遂行した。

 「よくあれだけ度胸よく指示通りやってくれた。ふつうは準決勝で0秒4も差があると逆転は難しい。でも飛び込んで、浮き上がった時点で勝ったと思った。完ぺきなレース」。12年以上も指導してきた平井コーチは、愛弟子の集中力と勝負強さに今さらながら驚いていた。

 長く、苦しい4年間だった。アテネで五輪2冠の夢を実現させてプロ活動を本格化させたが、以前のような競技への意欲が沸いてこなかった。ひじやひざの故障も続いた。アテネ以降、宿敵ハンセンに直接対決で4連敗。200メートルでは日本選手権でも05年3位、06年4位と惨敗した。「五輪選考会前に、やる気がなくなってしまうかと思った」と平井コーチは振り返る。

 06年8月、パンパシフィック選手権で転機が訪れた。200メートル決勝。隣で泳いだ宿敵ハンセンが世界記録を樹立した。2秒以上の大差をつけられての屈辱的な惨敗に、北島の目が覚めた。「隣で出されて悔しくないわけがない。記録に挑戦したいと思うようになった」。ずっと勝てなかったライバルを追い続けた中学時代の自分を思い出した。「負けを知ったとき、初めて勝つことが出きる」と文集に書いた原点に戻った。

 昨春の世界選手権200メートルで金メダルを獲得して長い苦境を脱した。同夏にはプールの中で左脚の肉離れをするほど練習に打ち込んだ。ひざのバネを利かせたキックで勝ってきたが、今季は上半身のストロークの強化に努め「四輪駆動」の泳ぎに進化させた。

 アテネでは2冠を達成したが、泳ぎも記録もベストを出せなかった。「4年前にできなかったことができた。進化を見せられた。もちろん200メートルも勝負したい」。14日の200メートル決勝で五輪連続2冠を再び世界新記録で達成するために、まだ歩を止めるつもりはない。【高田文太】